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【短編】僕は本当に君を愛していたんだ



「ドクター、僕は本当に彼女を愛していたんだ。」

中年の男はそう言って話し始めた。メガネで鋭い視線を隠している彼は、その途端に水色の空気を漂わせた。

「あれは間違いなんかじゃない。」

断固たる彼の言葉はドクターにある種の圧迫感を与えた。

「誰も間違いだったか正解だったかは分かりません。ですので、自分が思うように解釈してください。」

「あれは僕が間違いだと思ったら間違いになって、間違いじゃなかったと思ったら間違いじゃなくなるってことか?」

「簡単に言えばそうでしょう。この問答に絶対の答えはないのですから。」

「でも、答えらしきものはあるだろう。外から僕を見て、君はどちらだと思う?」

ドクターは悩んだ。これは彼の治療において重要な分岐点になると考えたからだ。少しの沈黙の後、ドクターはこう答えた。

「私には判断できかねます。」
「そうか。きっとそれが答えらしきものなのだろうな。」

そう言った彼は胸ポケットからタバコを取り出し、火をつけた。タバコを挟む彼の指は力無く折り曲がっていた。

「重要なのは他人の意見ではありません。その出来事をどのように捉えるかです。」

「ドクター、そんなことはわかっているんだよ。ただ、信じられないだけなんだ。」

「何を信じることが難しいと?」

「終了の時間だ、ドクター。」

彼はドクターの質問には答えなかった。ただ、部屋をゆっくりと見渡して煙を吐いていた。

彼が帰った後、ドクターは彼のファイルを見直した。

ビットーリオ・ダーリンジャー、45歳。二ヶ月前に急にドクターの元にやってきて、過去を清算したいと言った。

この二ヶ月に渡り、ドクターは彼と8回面談をした。しかし、分かったことは彼が元恋人をまだ想っているということだけだった。

彼は自分の職業を会計士だと言った。見た目は全くもってその通りだったが、彼の纏っているものは会計士のそれとは違っていた。

ドクターは長年の勘で、彼は嘘をついていると感じていた。おそらく会計士ではない。しかし、ドクターはそれ以上考えないようにした。

ビットーリオは彼の最愛の人のことを悔いていると嘆いていた。このような相談はよくある。しかし、彼の嘆き方は尋常ではなかった。

ドクターとの面談の際、彼の目はいつも赤く充血し少し腫れていた。ドクターは涙を流したことによるものだと考えた。

しかしドクターはこの男が泣いているところが想像できなかった。

次の面談の日、ビットーリオは時間通りにやってきた。

「ドクター、僕はまだ彼女を愛しているんだ。」

ビットーリオはメガネを外し、目頭を押さえながらそう言った。

ドクターは落ち着いた態度で彼にこう告げた。

「今回はあなたのその気持ちについてもう少し細かく見ていきませんか?」

「愛しているという気持ちを深く掘り進めるということか?」

「いえ、これ以上掘り進めたりはしません。穴の形を見るのです。」

そう告げるとドクターは長い質問のリストを取り出し、ビットーリオに質問し始めた。

「では、彼女とあなたの出会いについて教えてください。」

ビットーリオは昨日のことのようにスラスラと答えた。

「彼女はピンクシャー通りにある花屋で季節外れのバラを売っていたんだ。僕はそのバラをなんでもない日に買った。」

「それで?」

「そしたら彼女珍しがってね。その日のうちにバーに行って朝まで話しをした。」

「なるほど。それがきっかけですか。では、彼女はどのような人でしたか?」

「そばかすがあった。自分のそばかすのことを『私のtea leaves』って呼んでいた。そんな人だ。」
 
彼女との思い出話をするビットーリオの顔は柔らかく目は空だった。

そして、いくつかの質問をしたのちに、ドクターは思い出の先に歩みを進めた。

「あなたと彼女が最後に会ったのはいつですか?」

ビットーリオの目に鋭さが戻った。しかし、そこにはいつものような寂しさではなく怯えがふくまれていた。

「1941年7月14日の午前1時だ。」
「その日に何があったのですか?」
「彼女にさよならを告げに行った。」
「それで?」
「さよならをした。」
「そんなにも愛していた彼女に別れを告げたのはなぜですか?」
「信じられなかったからだよ、ドクター」
「彼女のことをですか?」
「神だよ、神を信じられなくなったからさ、ドクター」

ドクターは沈黙してしまった。ドクターは彼の言葉の真意がわからなかった。
しばらくの間沈黙が続いたが、それを破ったのはビット―リオだった。

「僕は彼女を捧げた。」
「神に?」
「神以外のものさ。」
「悪魔ですか。」
「そう呼ばれることもある。」
「あなたがそこまでして得たかったものは何なのですか?」
「なんだったのだろうな。それが分からないからドクターのところに来た。」

ビットーリオはたばこの煙をふかしてからため息をついた。そしてこう続けた。

「僕はその瞬間を始まりだと信じてここまで生きてきた。でも、それは始まりじゃなかった。終わりだったんだよ。ドクター、終わりだったんだ。」

ビットーリオはその晩、自室で首を吊った。遺書なんてものはなかった。ただ、彼の顔はまるで眠っているようであった。

ドクターは思った、自分はビットーリオの生前を知らなかったのだと。

そしてドクターは教会に行かなくなった。

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