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【短編】最後の子

どうして。こんなにも素晴らしいのに。紗子は思った。

彼女はある宗教の信者である。25年前、宗教家 Y川によって開かれた宗教団体「X会」は若年層の信者を急激に増やしていった。彼女は18歳の時に出会い、急激にのめり込んでいった。

学校でいじめを受け、夢もなかった紗子にとってそれは人生で初めて何かに熱中する経験であり、信じる者としての人生は幸せであった。1日のほとんどの時間をそこでの生活に費やした。

X会は本部内で信者たちが集団生活をしていた。ずっと孤独に生きてきた彼女にとってそれは初めての「所属」であった。初めての友人、初めての共同作業、初めての生きている意味をX会は与えてくれた。

皆で祈りを捧げ、歌を歌い、食事を作り、食べる。毎日が充実していた。

信者たちは決して相手の意見を否定しないことを信条としていた。仮にその意見がどんなにばかげていても皆が真剣にその意見を取り合ってくれた。しかし、彼女が自分自身を卑下したとき皆は厳しくなった。怒鳴るわけではない。ただ、彼女の自分自身を否定する発言を決して肯定しなかった。その時に感じる皆のムチ的な態度に彼女は家族愛のようなものを見出した。

紗子はその後、教祖Y川にみそめられ、彼の秘書のような役割を担うことになった。そして同時に彼に処女を捧げた。彼女はとても清らかな気持ちであり、それは彼女にとって第二の洗礼にも等しかった。

また、紗子は布教活動にも精をだした。彼女はX会が全世界の人々を救うと信じて疑わなかった。布教活動のたびに外界に触れ、時には罵倒されることもあったが、彼女は怒りではなく悲しみを覚えた。同時にX会信者以外を「なぜこんなにも愚かなのだろう」と見下してさえいた。

その当時、世間はX会を数多くある新興宗教の中の一つとしてしか認識していなかったが、ある出来事をきっかけに、風向きが変わることとなる。

信者の一人が殺人罪で逮捕・起訴されたのだ。布教活動中に教祖Y川のことを侮辱され衝動的に相手の体を押したところ、運悪く相手の頭が地面にあたり死亡してしまったのだ。メディアはこのニュースを面白おかしく取り上げた。世間は「X会」を狂信的な教祖と盲目的な信者で構成された過激派集団であるかのように信じ込んだ。

紗子は彼のことを良く知っていた。彼は普段とても穏やかな人で笑った時のえくぼが特徴的ないたって普通の男性であった。彼女は自分も同じ立場だったら相手を殴っていたと彼に同情するとともに世間に対して強い怒りを覚えた。今まで、一度たりとも外界に無理やり干渉したことはない、だから彼女は他の人々を「可哀想」だと思ってきた。しかし、それが裏切られ彼らが自分たちの聖域を犯そうとしている今、強制的にでも目を覚まさせてあげなければならない。彼女の悲しみは怒りになり、そして使命感へと変移した。

紗子と他の信者たちは今まで以上に熱烈に布教活動を行い始めた。裁判所前でのデモはもちろん、まだ無垢な子供たちからと小学校に乗り込んだこともあった。

その活動は火に油を注いだ。世間はますますX会の危険性について騒ぎ立て、連日連夜、本部に押し寄せてくる報道陣に信者たちは疲弊していった。
さらに、それに拍車を掛けるように教祖Y川による献金の横領や、本部内で行われていた数々の性犯罪が暴かれた。それにより大多数の信者たちが脱退し、Y川自身は逮捕状が出たという情報を受け取るや否や、本部内で自ら命を絶った。

Y川の死の知らせを聞いた紗子と残った信者たちは悲しみに明け暮れた。彼女たちはメディアによって暴かれたY川の悪行は全て世間野でっち上げであり、世界が自分たちを貶めようとしていると信じて疑わなかった。教祖無き今、X会の教えを世に広め、世界を救うのは自分たちしかいないのだと、彼女と仲間たちは自らの使命を再確認し、固く抱き合った。15年前の出来事である。この当時、彼女は25歳であった。

◇◇◇

紗子はそれからの15年間、教義に従った生活を貫いた。教祖Y川にささげた身はそれから誰にも許さなかった。彼女は今年40歳になる。配偶者も子供もおらず、教祖の写真と必要最低限の物しかない小さな部屋で一人暮らしていた。祈りを捧げ、歌を歌い、食事を作り、食べる。この生活を律儀に守り続けた。趣味はない。マスターベーションでさえも彼女は決してしなかった。

15年前、かろうじて残った二十数名の信者たちはそれから着々と数を減らした。あるものは、目が覚めたと言い、あるものは諦め、あるものは死んだ。紗子は信者たちが脱退しようとするたびに必死に引き止めたが、彼らの眼に映るのは無意味に若さを費やした後悔と彼女に対する同情であった。

そして信者の数は紗子ともう一名だけであった。もう一人の信者は彼女の親友とも呼べる人物である。共同生活はしていないが、彼女も自分と同じような生活をしていると信じていた。彼女たちは週に一度、紗子の家で祈りを捧げていた。それ以外の時間に彼女が何をしているのか紗子は知らなかった。

しかし、ある日、彼女は紗子にもうこれ以上付き合うことはできないと言い、それから紗子の元に訪れなくなった。それをおかしく思い、彼女の住所に訪れたがそこには二階建ての一軒家があった。少し隙間の空いたカーテンから中を覗くと彼女の他に男性と小さな男の子が夕食を食べていた。どこからどう見ても幸せな一般家庭であった。

紗子は怒った。彼女にではなくその男に対してである。紗子は彼女が邪教の民に監禁されていると思い込んだ。しかし、インターフォンを鳴らして出てきた彼女は紗子に少し驚き、それからこれ以上関わらないでほしいと言った。

紗子が最後の信者だと思い込んでいた彼女は3年前に結婚し、子供を授かっていた。夫は彼女の過去を理解した上で結婚することを決めたという。紗子の事情も聞いており、彼女が紗子のもとに行くことも了承していた。しかし、子供が幼稚園に入るのと同時に夫からこれ以上はやめてほしいと言われたというのだ。

彼女はとっくの昔から信仰心など消え失せ、紗子の元に訪れていたのはただの友人としてであった。彼女は紗子を放っておくことができなかったが、子供も物心ついた今、これ以上続けることはできないと言い、無慈悲にも扉を閉めた。

彼女は最後の信者となった。

どうして、こんなにも素晴らしいのに。紗子は思った。どうしてみんないなくなってしまうんだ。どうしてみんな諦めてしまうんだろう。

そこで彼女の頭にカケラほどの嫉妬心があることに気がついた。もしも、自分に子供がいたらどんな顔をしていたのだろうか。夫がいたら、どんな気持ちなのだろうか。閑静な住宅街に一軒家を構えて、誰かが「行ってきます」と言ってくれる生活があったのだろうか。愛していると言ってもらえたのだろうか。街のいろんな場所に思い出が散りばめられたのだろうか。

お母さんと呼ぶ声が頭の中をこだました。

部屋に戻った紗子は呆然とした。今朝まで満ち足りていた部屋が急に寂しく思えた。その寂しさを払拭するように彼女は祈りを唱え続けた。

すると、祈り始めて3日目の晩、彼女の前にY川が現れた。Y川は光り輝き、紗子が初めて出会ったあの日と変わらぬ笑顔で彼女のお腹をさすった。紗子は涙を流した。自分は間違っていなかったのだと。報われる時が来たのだと。そして、さすられた腹を見るとそれは膨らんでおり、彼女の妊娠を意味していた。彼女は処女を捧げたあの日からずっと自分はY川の種を体の中に持ち続けていており、それがついに目覚める準備に入ったのだと確信した。自分はついに母になるのだと。聖なる母である。

彼女は聖母になったのである。
大きく膨らんだ腹をさすり、紗子は朗らかに笑った。

◇◇◇

2012年8月、紗子の遺体が彼女の部屋で発見された。異臭を感じた隣人による通報で、警察が突入したところ、エアコンもない部屋で彼女の遺体は腐ってウジが湧いていた。

彼女の死因は胃ガンであった。彼女の腹は膨らんでおり、胃がんによって体の水分調節機能が作用せず腹部に水分が溜まっていたと考えられた。

祭壇に飾られたY川の写真からは彼女のDNAが検出された。そして部屋はベビー用品で埋め尽くされており、机には彼女が広告の裏紙を使って自作した母子手帳が静かに置いてあった。

その中に彼女が入信した日に撮った集合写真が張り付けられていた。

その写真には「Happy Birthday」と丁寧な文字で書いてあった。

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