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親愛なる、/家族【短編小説】


 外を歩くと緩い風が吹き、雨の混じったような春の匂いがした。

 それは鼻の奥から目の裏へ、更にこめかみを優しく撫で身体を巡っていく。

 酸素の循環は脳を刺激し、一つの記憶を思い起こさせた。同時にくらくらする程の虚無感に襲われる。


 嗚呼、春は嫌いだ。死にたくなる。

 私の家族が壊れた春が、嫌いだ。




 ひび割れる音が鳴りそうな寒さの隙間から、小さな芽が顔を出すように春を感じたのが先月のはじめの頃だった。

 その芽はゆるりと曲線を描き、柔らかく伸びていく。円のような冬とは違い、結びついては離れる線の春は出会いと別れをよく表している。

 そんなことを太陽の光を受けて薄く光るレースのカーテンを見ながら思う。閉じたままの窓は外の空気を遮り、春を部屋に入れない。


 手元でスマホが点灯していることを目の端で確認し、のろのろと手を動かす。

 電話だ。父の名前が表示されている。通話ボタン、スピーカー、珈琲、よし。


「もしもし」

⸺もしもし。今、時間大丈夫か?

「うん」

⸺正式に家を売る契約をしたよ。それを伝えたくてな。

「うん」

⸺細かい話は会った時にするが…週末空いてるか?

「夜なら」

⸺分かった。アカリも来ると言っている。レンは…来ないそうだ。

「…お母さんは?」

⸺連絡はしたが返事がない。爺ちゃんは婆ちゃんの病院に顔を出してから来るそうだ。

「まあ…だよね。お婆ちゃんどうなの?」

⸺あまり良くはない。歳が歳だからな。

「そうだね。その事お母さんには」

⸺伝えたが…。

「返事はないよね」

⸺ごめんな。

「どうしてお父さんが謝るの?仕方のないことじゃない」


 家族が壊れた春が嫌いだ。

 

⸺いや、父さんが…

「…誰が悪いってことでもないでしょ」

⸺そうか…無理はしないようにな。

「うん。お父さんもね」

⸺それじゃあ、また週末に。

「またね」


 余韻もなく途切れる電話の音が嫌いだ。

 スマホを放ると珈琲のカップを取り上げ、口元に近付ける。バランスの取れた匂いが鼻に届いた。


「……………」


 数秒の間そのままの姿勢を保った後に、珈琲には口を付けずテーブルへと戻す。視線の先に少しも揺れないレースのカーテンがある。


 死にたくなる春が嫌いだ。

 家族が壊れてから、いや壊れはじめてから、何度春と踊っただろう。不穏は小さな綻びだ。それに気がついていても力を持たない子供にはどうしようもないこともある。踊るたびにずれていく家族を、普通から離れていくその様を見ていた。

 私の両の手は妹と弟を抱きしめることしかできずに、大丈夫と笑いながら少しずつやつれていく両親と祖父母は私達が寝静まったあと、いがみ合っているのを知っていた。


 踊って踊らされて踊り続けて、子供ではなくなった時、残っていたのは家族という記号の呪いだった。

 もう、元には戻らない。戻らないのに求め続けてしまう。弟と妹は見切りをつけられたのに、私だけが延々と自ら呪いをかけられにいっている。



 春の木漏れ日を受ける窓へふらふらと引き寄せられるように近づく。

 開けてはいけない。開けてはいけないの。開けてしまったら、春が入ってきてしまう。結んではほどき、どこまでも先へ進む春が。


 カラカラと音を立て、いとも簡単に開く窓。流れ込む空気と匂い。温度。柔らかく暖かい、芽吹きの季節。儚くも歩みを止めない季節。


 冬の余韻がわずかに残りながらも、木々はその葉を静かに伸ばす。ゆったりと室内に入る空気は太陽の光が抱きしめたかのように暖かい。陽の光が射す場所がきらきらと輝いて、そこだけがゆっくりと時間が流れている。


 世界が水彩画になったかのように視界が滲む。

 今日という日は私がずっと追い求めて、手に入らなかったその日。

 今日という日は私がもう手に入らないことを認められなかった日。


 私はその光景に家族のぬくもりを感じたのだ。いや、置き去りにしてしまった幼い頃のわたし、だろうか。

 大人になってから気がついた。確実に壊れていく家族の中でも、幸せはあったのだと。何でもないような日に、アルバムにも乗らないような日に幸せはあったのだと。


 ずっと守りたかったもの。守れなかったもの、守られなかったもの。

 これから先、守らないであろうもの。



 きっともう、守れない。いや元々守ってなどいなかった。記号となった家族という呪いに対してただただ問題を深くし、かき混ぜ傷を負う。本当は何もしないことが一番最善だったのかもしれない。

 それでも私はあの頃の、幸せだった時の家族を守りたかった。


 守れなかったと泣く幼い頃の私を許してあげたかった。そして、許してほしかった。


 開け放たれた窓から指を出して、そっと春の傷跡に触れる。

 枷であり、糧であり、祈りであり、呪いである春の記憶。

 共に生きてきた。手放すことのできなかった記憶。けれど、これからはもう。


 指先を緩く締め付けてくるような空気を静かに払う。緩慢な動きが見えない渦を作って泣いた。

 その光景を見ながら、もう揃うことのない家族への言葉が口から溢れ落ちた。


「愛しているよ、ずっと」


「さようなら」



 親愛なる、家族へ。

 了

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