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宗教について#1

 ポーランドに留学していると、宗教について考えさせられることが多い。ポーランド人はヨーロッパの中でもキリスト教の信仰が厚いことで有名で、私がこの国を留学先に選んだ理由もそこにあるのだが、ここ5年間で95%いたキリスト教・カトリックの信者は、60%にまで減少してしまったそうだ。ポーランドでは今でも多くの人が朝のミサに出席するが、そのほとんどは中年以上の高齢者である。ポーランドで若い人に信仰について聞くと、無宗教だと返って来ることが多い。彼らは小さい時に洗礼を受けており、教会に通って教えを聞いている。意外だったのが、無宗教だけれど日曜日はミサに行く、と言う人もいた。彼らのほとんど全員が、クリスマスは家族と共に伝統的なお祈りの儀式を行い、しきたり通りの食事をしてお祝いする。

 ポーランドの南、ドイツではキリスト教信者の数はすでに20%にも満たない。ドイツにも教会はあるものの、懺悔をしている人の姿を見ることはほとんどない。そこは観光地としての役割を果たしており、多くの人は写真を撮ると、そそくさと出て行ってしまう。ドイツのヒトラー政権下で起こった20世紀最大の悲劇と言われたユダヤ人迫害の歴史は、キリスト教のプロテスタントを作ったルターが「ユダヤ人と彼らの嘘について」の中でユダヤ人の行動を規制すべきだとする記述から、ヒトラーが影響を受けたことが要因の1つと言われている。ドイツの人々にとってヒトラー政権を支持し、その大きな過ちを犯したことは世界から見て後世にわたる負い目であり、多くのドイツ人がキリスト教を離れることは自然な流れであったのかもしれない。

  日本のヒット漫画、「おやすみプンプン」「アイアムアヒーロー」「進撃の巨人」(これらの漫画はドイツやポーランドの若者の間でも読まれている。)の世界で描かれる「宗教」は、考えることをやめてしまった人間たちの、現実に対処する術を知らない弱い人々の集団として描かれている。モデルの1つとして地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教があるのだろう。J-POPでは星野源も藤原基央も桜井和寿も「神を信じない」を歌う。神を信じず、目の前の人を信じることが、まるで純愛であるかのように。けれどもきっと若者たちは、その音楽に涙を流し浸った後に、神様に願掛けをする。「神様、試験に合格させてください!」と。

 私たち日本人は元々や八百万の神【山、川、米粒一つ一つ、トイレなど全ての場所、ものに神が宿ると信じる。】を信じていたが、中国から渡ってきた仏教を信じるものが現れ、ザビエルの渡来でキリスト教を信じたものたちもいた。日本人はキリスト教徒でなくてもクリスマスを祝うし、新年には初詣に行き、お葬式には僧侶を呼ぶ。他の国の宗教に対して寛容なことは良いことであるが、影響されやすく、信じやすいとも言える。

 私のいる大学で、科学をテーマに作品制作をしている若いアーティストの男性が講演に招かれたことがあった。彼が行っている作品は科学を扱っていて、その例として、自然界にはない青色を作り出し、青いバラを作ることなどである。少人数の講義だったため、自己紹介をした際、宗教に関することに興味があって作品制作している事を話すと、「あなたはなぜ宗教などに興味があるんですか。開祖になりたいのですか?」と少し嘲るような口調で問われた。私は「いいえ、私は、なぜこの世界には宗教があり、これだけ多くの多様な民族がありながら同じように信仰を作り出してきたのかが知りたいのです。」と答えた。その時は結局話は進展せず口論にもならなかったが、彼にとって宗教は、取り上げるに足らないものだった。 一方、アインシュタイン という科学者は有神論者【宇宙を作り、人を作った超自然的知性の存在を信じる。それは人間界の事柄に密接に関わっている】でも理神論者【宇宙を作った超自然的な知性を信じているが、それは人間界の事柄に特別な関心を持たない。】でもなかったが、信仰心を持っていた。それは超自然的な神ではなく、神という単語を、超自然的なものではない「自然」あるいは「宇宙」あるいは宇宙の仕組みを支配する法則性の同義語として使っていた。

以下、アインシュタイン の言葉である。

科学とは、組織的な施策によってこの世の諸現象を一つの連合に持ち来たそうとする努力。宗教的とは合理的な基礎を必要としない超個人的対象や目標の意義高貴さに少しも疑惑を抱かないこと。
「真の宗教人」とは死も生も恐れず、盲目的な信仰を持たず、自分の良心だけを信じる。そうすれば、周囲の出来事を観察し、判断するための直感、さらに「自分が無限の知恵の海岸の一粒の砂に過ぎない」と悟る謙遜を身に付けることができる。そこに「宗教と科学は調和する」可能性がある。


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