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宗教について#2

 どこかで誰かを失いつつ生きる私たち。
 ポーランドでの生活は、いろいろと制限が増して窮屈に感じることも多いけど、その分様々な事を考えるきっかけをくれるし、自分を省みていられる。最近はずっと部屋の中で本を読んだり、紙と鉛筆だけでドローイングを描いたりして過ごしている。外に出たい衝動に駆られると、キッチンの高いところにある窓から見える、淡い青色の空を見つめて、心を沈める。そうしている時にいつもぼんやり思い出すのは、谷川俊太郎の「空の青さを見つめていると」という詩。

                                     空の青さを見つめていると 
私に帰るところがあるような気がする 
だが雲を通ってきた明るさは 
もはや空へは帰ってゆかない                                      陽は絶えず豪華に捨てている 
夜になっても私達は拾うのに忙しい 
人はすべていやしい生れなので 
樹のように豊かに休むことがない                                      窓があふれたものを切りとっている 
私は宇宙以外の部屋を欲しない 
そのため私は人と不和になる                                      在ることは空間や時間を傷つけることだ 
そして痛みがむしろ私を責める 
私が去ると私の健康が戻ってくるだろう 

この詩は、思春期の少女が考えがちな崇高な死への願望とも捉えられるけど、寂しさや暗さが感じられないのは人間の存在についての本質をついているからだと思う。

 地球の軌道から外れて月面に降り立ち、地球を見た宇宙飛行士(月面歩行者)は今までに12人いる。月へ着陸するには、ただ大気圏を突破するよりもずっと膨大な資金を必要とするし、月に行く事を目指した宇宙開発競争が昔ほど激化することはもうないだろうから、月面歩行者の数は今後増える事はないだろう。4人目の月面歩行者であるアラン・ビーン氏は、月から見た地球をこう表現していた。

「頭上から右に20度の方向に大きな丸のままの地球が浮かんでいた。透明な青と暖かな白のまだら模様の球体が暗黒な天界でひとり神秘的な光を放っていた」

 月面歩行者のうち、月面から見た景色から霊的な強い影響を受けて、その後の人生が変わってしまった人は少なくない。ビーン氏の場合は、その時に見た景色を何とかして後世に残さなくてはならないという使命感から、絵描きの道に進んだ。6人目の月面歩行者のエドガー・ミッチェル氏は哲学者・思想家になったし、8人目の月面歩行者、ジェームズ・アーウィン氏も「月面で神の啓示を受けた」と言い、帰還後宗教財団をつくって伝道師になった。そのような神秘的な体験をした者たちのことを、「神に抱かれた人」と言うのだそうだ。

 人類史を遡って、なぜ人間は神を必要としたのだろうか。それは「死を恐れたから」「心の拠り所が必要だったから」という理由以上に、自分のはかなく小さな存在と比して、この世界には何か形容し難い大きなもの・偉大なものがあると漠然と感じていたからではないか。ある慎重な観察者にとっては、この世界が観察すればするほどになんらかの秩序に従って動いている事を示していて、その発見から崇高なものを感じずにはいられなかったからではないか。

 内田樹さんは、著書「困難な成熟」の中で、独自の概念「贈与と反対給付」を説明する過程で宗教の起源について書いている。それを下に引用するが、その前に内田さんの説く「贈与と反対給付」の仕組みについて簡単に説明しておく。人は大人になるまでに親や他者、社会や教育から贈与を受けるが、私たちが一番最初に贈与を受けるのは親からだ。例えば次のように。「あなたが存在している事を私は認知する。あなたが存在していることから私は今喜びを得ている。だから、あなたがこれからも存在し続ける事を私は祈っている。」それを受けて育った子どもが大人になると、義務感などの自分の意思とは一切関係無く、「反対給付」という形で自分の子どもや社会や他者に給付しようとする。「贈与と反対給付」とはこの自然な流れのことである。そしてそれこそが私たちの存在の根拠である、と内田氏は言う。

 太陽の光は地上に豊かに降り注いで、そのエネルギーの贈与のおかげで地球上の生物は生きているわけですけれど、それを「ありがたいなあ」と感じた人が出現してきて、「返礼」を「天に対する儀礼」(農作物を捧げたり、生け贄を燃やしてその烟を天に贈ったり)として行うことから宗教は始まった。私たちが今享受している資源は「贈与されたもの」だという自覚から宗教は始まったのです。太陽の光があるのは当然だ、と思う人は太陽の恵みに「感謝する」という行動を思いつきません。「ありがとう」というのは文字通り「有り難い=存在可能性が少ない」ということです。その「有り難い」幸運に今巡り合った。たまたまこんないい思いをさせていただいた。だから、感謝する。「贈り物を受け取った」ということに気づいて、「感謝」の義務を感じたものが登場する。それが贈与ということの本質です。贈与と反対給付という概念を持ったときに原始の宗教は始まった。そうだと思います。贈与という概念を持たない人間には宗教がない。宗教がないということは、端的にコスモロジーがないということです。天と地、過去と未来、善と悪、昼と夜、男と女……そういった世界を整序する枠組みがないということです。人間の人間性を基礎づけるのは「私は贈り物を受け取るという有り難い経験をした」という覚知です。そこから人間は始まる。人間の世界を整えるコスモロジーが生まれる。 

 万能の天才と呼ばれるレオナルド・ダ・ヴィンチは、イタリアの田舎にあるヴィンチ村で、非嫡出子として生まれた。実際の母親から幼い頃に引き離され、幼少期は正当な教育も受けなかった彼にとって、自然はよい教師であり、母親代わりだったと言われている。幼いダヴィンチは、特に水に並ならぬ関心を抱いていたそうだ。彼は生涯、飽くなき探究心で自然界のありとあらゆるものを観察・研究し、その法則を見つけ出そうとした。その熱心な姿とそこから生み出された膨大な手帳の記録や絵画の作品群は、自然に対する彼の深い信仰心の現れとも取れる。

(宗教・信仰についての考察はまだしばらく続く予定。まずはここまで、思い浮かんだことの記録として残しておく。)

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