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死ぬ気で生きろ

夢を見た。かなり長い夢だったように思うが、内容はあまり覚えていない。
覚えているのは20年以上も前に死んだあの子がいたこと、私があの子を全力で抱きしめていたこと。


私は普段ほとんど夢を見ない。睡眠時間の確保に全集中しているため、だいたい21時半くらいには寝床に入り、翌朝5時ごろ起きる。質の良い睡眠をとることで自分の豆腐メンタルのブレをコントロールしているつもりなのだが、最近は1度も起きることなく約7時間(疲れが溜まっていたら9時間くらい)しっかり眠ることができるようになった。眠りが深いことが自慢のこの私が、かなり久しぶりに鮮明な夢を見た。
「これからの人生では、絶対に、後で後悔しない選択をする」と決めたキッカケになったあの子の夢。


自分で死を選ぶ人を止めることは出来ない、という。たとえ自死だとしても、それはその人に定められた寿命なのだ、と。頭ではその言葉は理解できるし、冷静に考えればきっとそうなのだろうとも思う。そう思うことで気持ちを落ち着かせ、諦めようともしているのだろう。そうでもしなければ、残されたものは生きていくことが出来ない。悲しみに暮れ続けて生きていくには、人生はあまりに長すぎる。どれだけ願っても、死んだ人間は戻ってこない。どれだけ後悔しても、戻ってこない。戻ってこない人を「あの人がいたら」と思い続けていては、今ここに生きている人の人生を生きることが出来ない。
どこかで別々の道を歩まねばならない。
今ここにいないあの人に思いを馳せながらも、今ここに生きている自分と周りにいる人たちとで前に進まねばならない。





それでも、私はまだ後悔している。なぜあの時声をかけなかったのか。
連絡が取れない時があるらしい、と聞いた時。なぜ自分から連絡しなかったのか。
もしかしたら会えたのかもしれない。もしかしたら話を聞けたかもしれない。
人に愚痴をまったくこぼさないあの子の本音を、
あんなに長い手紙のやり取りとしていた自分だったら聞けたかもしれない。
「最近どう?ちょっとお茶しよーや!」のメールを打たなかったことを、
私はこれからも一生後悔し続けるのだと思う。



死は、生についてを考えるキッカケとなる。
あれから「あの時こうしていれば…」と後悔するような選択はしていない。
結果的に失敗や成功という形に現れるが、決めるときはいつも「これで最悪の事態が起こったとしても、自分で全て受け入れれるか?」と自問自答してから決める。望んだ結末と違っても、後悔はしない。あとあと一番苦しいのは、「なんとなく引っかかるのに行動しなかったこと」だ。過ぎた時間を巻き戻すことは出来ない。どれだけ頑張っても、お金を積んでも、私たちは今しか生きることが出来ない。今が過去になり、今が未来に繋がる。


潤沢な資産を持つ人が「最近はほとんどのことに感動しない」と言った。良い車に乗り、良いお家に住み、家族がいて、「感動しない」と言う。有り余る資産を持ったとしても、感動しない人生は御免だ。感動しないのは今身の周りにある全てが「当たり前」だからだ。生きていることが当たり前、VIP待遇されることが当たり前、自分が望むことができて当たり前だからだ。
今日生き延びることに命懸けの人がいる。明日ご飯を食べれるかわからない人がいる。明後日交通事故で死ぬかもしれない。例え自分がどれだけ万全に気をつけていても、誰かがハンドルを切り損ねれば死ぬのだ。ビルの工事の人が器具を落っことして当たれば死ぬのだ。今日一日、心が元気で無事に過ごせて、周りの人も元気にしている。暖かいご飯も食べることが出来て、風呂に入って、屋根のあるところで守られて眠れる。これは当たり前ではない。こんなに安全な日本でだって、もはや当たり前ではない。
当たり前と思う日々はいつでも、いとも簡単に消えて無くなる。



当たり前などこの世にひとつもない。
色んな目に見えないバランスの中で、
目に見えない何かに支えられて、
私たちは生かされている。

死んだように生きるな。
生きてるのに死ぬな。
与えられた命を全身全霊で使いきれ。


Change The World.
Life is Wonderful.

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