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君は美しい(第四夜)

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「ノリコのホテルに行ってもいい?」

そう聞かれて、迷わずコクリとうなずいた。

このまま離れるなんて、不可能に思えた。

彼が先に堤防を降り、下から手を差し出す。
しっかりと私の手をつかんで、胸の中に抱き込むように降ろしてくれる。

指を絡ませながらつないで、深夜の海沿いを歩いた。

今すぐホテルに着いてしまいたいような、まだ着かないでほしいような。
不安なのか期待なのか、心臓が自己主張するみたいにトクトク鳴っている。

ホテルの入口は、真っ暗だった。

自動ドアは昼に停電したときから半開きのままだ。音を立てぬよう、そっと中に入る。

突然、暗闇から人影が出てきてギクリとした。

よく見ると警備員の格好をしている。肌の色が闇にまぎれて、そこにいたことに気づかなかった。

がっしりとした体型の警備員は、スペイン語で何かネスティに話しかけた。

2人とも真顔で、やや早口に話している。ネスティはスペイン語をしゃべるとき、少しだけ声のトーンが上がるみたいだ。

しかしネスティが何を言っても警備員はしきりに「NO」をくり返し、首を振っている。

嫌な予感がした。

「セニョリータ」

今度は私のほうに顔を向けて、言った。

「ヒー キャント ゴー ユア ルーム」

(やっぱり)

ネスティはこのホテルに入れないのだ。

「どうして?彼は私のゲストよ」

「このホテルに入れるのは外国人だけです。彼は入れません」

「でも...」

「無理なんです。彼は入れません」

理由はわかる気がした。ガイドブックにも載っているこのホテル前は、いつも外国人のチップを求める人々であふれている。

しかし中には決して入れてもらえない。だからこそ、外でどれだけ声をかけられてもホテルの中では安心していられるのだ。

(でも、ネスティは違うのに)

どうにかならないか、と考え始めた私の腕を、ネスティが引いた。

「出よう」

どうして?

(もうあきらめちゃうの?)

ホテルを出たところで、ネスティは言った。

「彼は警察だから、逆らわないほうがいい」

「じゃあ......」

思わずうつむいてしまう。

「どうしよう」

ネスティがそっと近づき、正面から私を抱きしめた。

彼の筋肉質な腕に力がこもり、厚い胸板にほおがギュッと押しつけられる。

(男の人の体って、こんななんだ)

今まで抱きしめられたことは何度もあるけれど、こんなのは初めてだった。
全身が包まれるような、とてつもない安心感。

(ムリだ)

このまま離れるなんて、やっぱりできない。
勇気を出そう。まだ自分の気持ちを、何も言ってないじゃないか。

「ネスティ……もっとあなたと、一緒にいたい」

さっき彼が言った言葉のくり返し。
私にはそれが精一杯だった。

「……」

沈黙が流れ、おそるおそる彼の表情を見上げる。
こちらを見つめている視線と目が合った。

「ノリコ、僕についてきてくれる?」

「もちろん」

まだこの夜が終わってほしくない。

再び街を歩き、たどり着いたのは一軒の家の前だった。
ドアの横に赤いイカリのマークが掲げられていて、何かの施設のようだ。

ブザーを鳴らして少し待つと、中年の女性が出てきた。こんな夜中なのに。
バッグからiPhoneを取り出し、時間を見るとちょうど深夜0時だった。

女性はネスティと言葉を交わし、チラッと私を見る。
さっきの警備員とのやりとりを思い出して一瞬ドキッとしたが、何も言わずにドアを開け、私たちを中に招き入れた。

入るとすぐ階段になっている。女性の後をついて二階に上がり、通路の一番奥の部屋に通された。

真ん中に大きいベッドが置いてあるだけの、シンプルな部屋。

ドアの横にもう一つドアがあり、どうやらバスルームにつながっているらしい。簡易的な宿泊施設のようだ。

(というか、ラブホテル…?)

ものめずらしくてキョロキョロしていると、ネスティが

「暑い」

と言って、スタスタと部屋の奥に行き、窓を開け放った。

さぁっと風が入り、少しの星と明るい月が見える。

窓を開けた勢いで、彼はそのまま白いシャツを脱ぎ、ベッドの上に放った。

月明かりに照らされた半裸の体は、想像よりも鍛えられ、引き締まっている。

マッチョな男が多いこの国で、ネスティは華奢に見えた。しかし脱ぐと腹筋がしっかり割れている。

どぎまぎして、私もとりあえず肩からさげていたバッグを、テーブルの上に置いた。

ベッドを挟んで向こう側にいるネスティがまぶしくて、目を合わせられない。

彼が一歩一歩こちらに近づいてくる時間が、永遠に思えた。

「ノリコ」

ネスティは両腕で私を抱きしめ…いや、抱きかかえると、そのまま持ち上げてだっこするみたいに歩き出した。

「えっ…えっ?」

あまりに軽々と持ち上げられて焦っている間に、彼は私をだっこしたままベッドに腰かけた。そして片方の太ももの上に座らされる。

私がネスティを見下ろす形になった。
じっと彼の瞳を見つめる。

長いまつげがまばたきもせず、吸い込むように見つめ返してくる。

(黒い瞳だと思ってたけど……よく見ると少し茶色い)

そこに映っているのは、私だけ。

「ノリコ」

ささやくように名前を呼び、私の腕をゆっくりと引いた。

上から覆いかぶさるようにして、彼の唇に自分から口づける。

さっきの、さざ波のような優しさはもうない。余裕のフリをかなぐり捨てた、若いキスだった。

彼の舌が私の舌をからめとり、吸い、口の中を舐めまわす。

息ができなくなる寸前で唇を離して、見つめ合った。
お互いの呼吸だけが聞こえる。

ネスティが私のタンクトップの端を少しめくって、上目づかいにうながしてきた。

(脱いで)

一秒ももどかしい思いで、私と彼を隔てていたタンクトップを脱ぎ捨てる。

彼は片手で私の背中をしっかり支えると、そっと、本当にそっと、ベッドに横たえた。

月明かりの中で見上げた顔は、どこか苦しげだ。厚い胸板が静かに上下している。

彼からもまた、私がよく見えているだろう。

こんなにも誰かが欲しいと思ったのは、生まれて初めてだった。


※第五夜につづく

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