妄想甲子園

 二〇一九年夏の高校野球は、大阪代表・履正社の初優勝で幕を閉じた。今秋のドラフト一位候補で高校四天王の一人、星稜・奥川恭伸投手の熱投も印象深い。

 また、個人的には母校が初めて愛知県予選の決勝に進んだ大会としても、記憶に刻まれている。結果的に母校は決勝で敗れて初の甲子園出場は逃してしまったものの、九回裏二死から同点に追いつき、延長十二回裏にサヨナラ勝ちした準決勝をテレビで観戦していた私は、そのテレビの前で一喜一憂を繰り返しながら、それはそれは絶叫していたわけである。

  

 高校野球を観ることに熱中するようになった原体験は、一九九八年夏の甲子園大会。

 当時小学五年生の夏休み中だった私は、四強進出を果たした愛知代表の豊田大谷をテレビの前で夢中になって応援していた。延長十七回に及んだ激闘が今もなお語り継がれる横浜対PL学園の準々決勝に関しても、当の高校野球ビギナーの鼻垂れ坊主はというと、まさかのチャンネルを何度も変えながら「長っ!次の豊田大谷の試合が全然始まりゃしない!」と平気で聖地への冒涜を犯し、まったくもって豊田大谷のことしか目に入っていなかったほどだった。

 また、そのようなエモーショナルにわか高校野球ファン青二才は、豊田大谷の大躍進を牽引していた高校N0.1スラッガー・古木克明選手(三番サード。後に当時の横浜ベイスターズにドラフト一位で入団)のファンになっていた。決勝の京都成章戦でのノーヒットノーランをテレビで目の当たりにし、ようやく横浜・松坂大輔投手の”平成の怪物”っぷりを思い知った時には、真っ先に「豊田大谷が準決勝で京都成章に勝っていれば、決勝の舞台で古木と松坂の対決が観れたのに」みたいなことばかりを考えていた。

 そして、その年の夏の甲子園大会が終わった後も、しばらくその対決を夢想してしまっていたほどだった。

 

 

 話を二〇一九年に戻すと、この夏の甲子園大会は、岐阜代表の中京学院大中京を応援していた。

 理由は、中京学院大中京硬式野球部0Bの友人(以下、シソ野球小僧。※現在、彼はシソ農家のため)にインスパイアされていたからだ。

 それから、優勝候補の東海大相模に逆転勝利した試合をテレビ中継で観戦していたことも相まって、素直に感動したからである。

 ちなみに昨今のシソ野球小僧は、岐阜県予選の段階で母校を応援するために長良川球場まで熱心に足を運んでいる。そして、それが毎年恒例となっているため、選手たちのことを把握しているだけでなく、観戦に行く度に選手たちの成長を実感しているらしい。

 よって、選手一人一人への想い入れも凄まじい。

 例えば、県予選は好調だったにも関わらず甲子園では不振に陥ってしまった三番ライトの増田君(※シソ野球小僧は球児たちを君づけで呼ぶ)を見つめるその眼差しは、中京学院大中京ファン歴数日の私のそれとは明らかに一線を画していた。そのおかげで、三番から七番に打順を降格されてしまったり、チャンスの場面で代打を送られてしまったりしていたその増田君に対して、私も私で「打て!増田君!!悔しさを晴らせ!!!」と、いつの間にか感情移入させられてしまっていたのである。

 それから、シソ野球小僧の彼女・Mちゃんは、この太陽照りつける猛暑の中、やはり岐阜県予選の準決勝から問答無用でシソ野球小僧に球場へと連れて行かれていた。ましてやMちゃんは、学生時代はテニス部で元々野球に凄く興味があったわけではないと聞いた。

 言わば、これはシソ野球小僧の彼女になった者の”通過儀礼”と言っていいだろう。

 しかしMちゃんは、嫌な顔をするどころか「試合を観に行った次の日に、一人でバッティングセンターに行っちゃった」と言って笑っていた。終いには「母校じゃないのに、もう中京学院大中京が母校みたいに思えてきた」と笑い、シソ野球小僧と一緒に甲子園の中京学院大中京側アルプススタンドで、一回戦の北照戦を観戦したらしい。

 ……良い彼女を持ったな、シソ野球小僧。

 

 ちなみに、準々決勝の作新学院戦は、私もシソ野球小僧の家にお邪魔して二人と一緒に固唾を飲みながらテレビ中継を見守った。

 結果は、八回裏に七番ピッチャー・元君の満塁ホームランが飛び出して、またもや逆転勝利。春夏合わせて初の甲子園四強入りを決め、私たちは興奮して喜んだ。

 そして、その時のシソ野球小僧とMちゃんが、仲良く”中京”もしくは”CHUKYO”のフォームを着ていたことは言うまでもない。

 しかしそれにしても、高校野球の影響からMちゃんが一人でバッティングセンターに行ってしまった気持ちは、私もわからないでもない。

 というか、むしろ心当たりさえある。

 なぜなら、私も小学五年生の夏に高校野球にどっぷりハマって以来、高校球児になった妄想をしながら家の前の庭でバットを振ってしまうことが、幾度となくあったからである。

 ちなみに、妄想はこうである。

 私は、一年生秋から豊田大谷の四番キャッチャー(右投右打)という設定だ。

 しかし、愛知には私学四強(東邦・中京大中京・愛工大名電・享栄)がいるため、なかなか簡単に甲子園出場は叶わない。

 新チームではキャプテンとなり、いよいよ三年生の夏を迎える。春のセンバツ出場を逃した悔しさを背に、豊田大谷はとうとう愛知県予選の準決勝まで駒を進めた。

 準決勝の相手は、愛工大名電。

 しかし私学四強の壁はやはり厚く、〇対二で惜敗して最後の夏も甲子園出場を逃してしまう。

 また私自身も、愛工大名電のエースピッチャーが右サイドスローから繰り出すストライクからボールに逃げていくスライダーに苦しめられ、三打席連続三振を喫してしまう。

 だが、高校最後の打席となった四打席目にあわやホームランという当たりの左中間を破るツーベースを放ち、存在感を示す。守備でも盗塁を二回阻止するなど、愛工大名電に一矢報いたのだった。

 

 そして、運命のドラフト会議。

 甲子園出場はなく、全国的には無名。高校日本代表にも選ばれず、ドラフト候補に名前は連ねているものの、スカウト評はB。

 指名されるかされないかの当落線上と噂される中、地元の中日ドラゴンズから六位で指名を受ける。

 中日ドラゴンズさんは、一番熱心にスカウトが足を運んでくれていて、何より昔からファンだった意中の球団だった。

 契約金二〇〇〇万円、年俸四八〇万円(共に推定)で入団に合意。

 中日新聞発行の選手名鑑のコメントは、”まだまだ粗削りだが、将来性豊か。高校通算35本塁打の打力にも期待。”

 しかし、一年目はプロの壁に跳ね返される。

 一軍出場はなし。二軍のウエスタンリーグで、主に代打で13試合に出場し、打率・183 1本塁打 3打点 0盗塁。

 二年目の中日新聞発行の選手名鑑のコメントは、”粗削りながら、大器の片鱗は随所に見せた。経験を積んで、まずは二軍の正捕手を狙う。”

 

 その後は、二軍で下積みを経験。

 五年目にようやく二軍で正捕手の座を奪い、シーズン終盤に初の一軍昇格。

 七年目には、一軍定着。代打としての出場や、途中出場でマスクを被る。

 そして、十年目にして遂に中日の正捕手の座を掴む。

 レギュラー定着後は”恐怖の八番バッター”としても活躍し、リーグ優勝と日本一を経験。

 ベストナインを三度、ゴールデングラブ賞を二度受賞。

 高校時代から定評のあった長打力も花開き、捕手ながらシーズン30本塁打を二度記録。

 WBC日本代表に選出(一回)。

 晩年は右肩の手術の影響もあり、右の代打の切り札としてチームを支える。

 生涯中日一筋。二十三年間のプロ生活を経て、引退……

 と、プロ二年目以降から妄想がざっくりしてきているが、ザッとこんな感じである。

 

 ちなみに、私が出場を逃した夏の甲子園大会の決勝は、PL学園(大阪)対横浜(神奈川)だった。

 決勝の妄想の詳細は割愛するが、優勝したのはPL学園で春夏連覇だった。

 また、PL学園には一年生夏から四番を任され、同じPL学園の先輩にもあたる”福留の再来”と騒がれた鬼塚君(四番サード・右投左打)というプロ注目の超高校級スラッガーがいるというのが、鉄板の妄想だった。

 そして、どちらかと言えば、私自身が高校球児だったらという妄想よりも、鬼塚君をはじめ、このPL学園の妄想を何度もした。

 

 この年のドラフトの目玉だった鬼塚君は、五球団競合の末、ドラフト一位で阪神タイガースに入団(最高条件である契約金一億円+出来高払い五〇〇〇万円、年俸一五〇〇万円。※推定)。

 高卒ルーキーながら、キャンプは開幕一軍スタート。

 オープン戦でも三本のホームランを放って結果を残し、開幕スタメンを掴み取る(六番サード)。

 高卒ルーキーでは清原和博選手の31本塁打に次ぐシーズン30本のホームランを記録。139試合に出場し、打率・303 30本塁打 92打点 17盗塁。オールスターにもファン投票で選出され、新人王となる。

 二年目には、早くも本塁打王と打点王のタイトルを獲得。

 五年目には首位打者のタイトル獲得に加え、3割30本30盗塁の”トリプルスリー”を達成。

 七年目には三冠王に輝き、シーズン終了後にポスティングシステムでメジャーリーグに移籍……と、いつも鬼塚君に関してはメジャーリーグに移籍したぐらいで妄想は終わる。

 それから、PL学園の鬼塚君以外の優勝メンバーの主力には、来年以降のドラフト候補にも挙がっている一、二年生が何人かいる設定だったので、秋からの新チームは来春のセンバツ出場も確実視されていたし、優勝候補の筆頭でもあった。

 しかし、新チーム発足後の秋の大阪府大会五回戦で、彗星の如く現れた近大附属の一年生左ピッチャーに自慢の打線が抑え込まれ、一対二でまさかの敗退。

 翌年の春のセンバツ出場を逃してしまう。

 ちなみに、その近大附属の一年生左ピッチャーには夏の大阪府予選の準決勝でリベンジし、PL学園はその勢いのまま夏の甲子園大会で連覇を果たす。

 そして、ドラフトでは……

 いや、PL学園の学年が一つ下の新チームの妄想については、ここまでにしておきたいと思う。

 最後にせっかくなので、私と同じ歳の”鬼塚世代”で、ドラフト一位でプロ入りした主な選手を紹介する。

 ”西の鬼塚・東の天堂”と比較された右の長距離砲、横浜の四番・天堂君(DeNAとの競合の末、交渉権を獲得した楽天にドラフト一位で入団。右投右打・外野手)。

 大阪府大会決勝で鬼塚君擁するPL学園と対戦し、鬼塚君に2ランホームランを浴びて甲子園出場を阻まれた”上原2世”こと、東海大仰星のエース・麻生君(上原と同じ大阪体育大に進学後、オリックスにドラフト一位で入団。右投右打・投手)。

 神奈川県予選準々決勝で、天堂君擁する横浜の前に涙を飲んだ”神奈川のドクターK”こと、桐蔭学園の宍渡君(マックス一五一キロのストレートと高速スライダーが武器。プロ入り後にシュートとチェンジアップにも磨きをかけ、ピッチングの幅が広がる。天堂君をくじ引きで外したDeNAが外れ一位で指名。左投左打・投手)。

 甲子園出場は叶わなかったものの、マックス一五三キロの豪速球で俄然注目。制球難と変化球に課題が残る、背番号10の”未完の大器”。帝京の……えーっと、名前を考えたけれど忘れてしまった◯◯君(東京ガスに進んだ後に、ヤクルトにドラフト一位で入団。東京ガスでアンダースローに転向して、才能開花。下手投げからの一四〇キロ中盤のストレートに、魔球と恐れられたシンカーが武器。右投左打)。

 

 あと、これは余談であるが、大阪体育大の麻生君と東京ガスの◯◯君については、週刊ベースボールのドラフト前の特集号のように、スカウト評だけではなく特集インタビューの記事まで書いた覚えがある。

 ……勿論、全て妄想でだ。

 

 ※全てフィクションです。実際の学校及び企業とは一切関係はありませんので、ご了承ください。

 

 それから、今になって気づいたのだけれど、妄想に登場する豊田大谷といい横浜といいPL学園といい、よっぽど初めて観た一九九八年の夏の甲子園のインパクトが私の中で残っているのだろう。

 ちなみに、その一九九八年の横浜対PL学園の準々決勝については、後にドキュメンタリー番組や書物などでちゃんと知った。

 今となっては、そんな球史に残る名勝負が繰り広げられているのも知らずに、チャンネルを変えながら文句を垂れていたことを後悔している。

 

 ……言ってやりたいな、当時の自分自身に。

 「目撃せよ」と。

 

 そして、日本中の度肝を抜いたあの平成の怪物・松坂大輔が、巡り巡って中日にやって来たのだと。

 ……信じないんだろうな、絶対に。

 

 そして最後の最後に、もう一つ言ってやりたい。

 いくら野球が好きとはいえ、バットではなく竹刀を振れと。

 ……程遠いな、無念無想には。

 

 

 そう。私は、高校まで剣道部。




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