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恋の基本と結婚のカタチ

#「ホモとアル中の夫婦」なんて自嘲的な呼び方。「夫がゲイで妻が依存症患者」ではなく「ホモとアル中の夫婦」。1991年に書かれた江國香織の小説「きらきらひかる」の主人公・笑子が自分たちを表現する時の言葉だ。時代的にこの呼び名にデリカシーのなさを感じなかったのだと見做すことも出来なくはないだろうが、普段、ものの名称にこだわっているこの作家が、なんの頓着せずにこの呼び名を選んだとも考え難い印象的な呼び方。

読書会はいつものように、年齢もバラバラ、結婚観や夫婦観、生活感などもバラバラの人達が参加する。間を繋ぐのは本だけ。同性愛や精神疾患にもそれぞれの考え方がある事は容易に想像がつくが、あえてそこを均すような、何は偏見で、何は偏見じゃないなんて発言はせずに進行したいと思った。作品に委ねていいだろうと、信頼していたので。

例えば、ある人が「この夫婦は、夫婦になってから、お互いを知ろうとコミュニケーションして行く。通常の恋愛や結婚と反対の段取りですね」と言う。

言われたので考えてみる。反対だろうか?私たちの結婚はなにもかも理解して、安心して始めただろうか?何人かの参加者の頭の中に、小さく鋭く、後のガイドラインの基礎となるような新婚生活の諍いやすれ違いがよぎったように見えた。

「反対にこれはよくある流れなのではないか」と問いかけてみると、やはりその人たちが深く頷いた。頷かれてみると、普通と反対では?と言った人たちの視線も少し遠出したように見えた。そうかもしれない。

そう、やはりこれは江國香織があとがきに書いているように、基本的な恋愛小説なのだ。「ホモとアル中の夫婦」だと、私たちは変わった夫婦だよとでも言うように、笑子が語る。だから、読み手はどんなに特別な夫婦なのか覗いてやろうと張り切って読む。

中にいるのは、人が人に恋をする姿がただ描かれている。この恋は、必ずしも性愛的なものを伴う恋という意味に限らない。人が人を思い、人が人を慕う。ただその様子が書かれている。そこにあるのは、特別でも変わってもいない、大切な人を想う人たちなのだ。

表面的にはは一風変わってはいるだろう。その性的指向に付属したカムアウト、精神疾患によるパニック発作。しかし、誰にでも事情はあり、誰もが事情に左右されながら大切な人との信頼を築いて行く。周囲の干渉と未定の将来、確定したルールと従い難い気持ち。

そのすべてが個性的で、そのすべてが凡庸だ。

小説が終わる頃には、「ホモとアル中」であるかどうかなど、みなどうでもいいような気分にさせられた。そんなこと登場人物のキャラクター設定の一部分でしかなかったのだ。

この小説の中では、登場する人達それぞれが、主人公たちだけではなく、それを取り巻くすべての人達それぞれが、きらきらひかって見えていた。



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