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肯定も否定もできない。

 バイクで日本を一周する旅を終え、最後にADHDの診断を受けていたことを明かしてダムで亡くなった男性のTwitterを見ているといろんな意見があって、なんだか考えてしまいますね。

 私は自殺で知人や友人を3人亡くしました。それもあって、どうしてもこういったことを知ると気持ちが重くなってしまいます。上手く言葉にできないかもしれませんが、どこかに書きたかったのでここに書きます。※ずっと下書きにありました

 まず、私は自殺に対して、生きることは義務では無いし、権利だからそのことに対して否定も肯定もできないなと考えています。

 この考え方は、人によっては冷たかったり優しく無いとと思われるかもしれません。しかし、自分だけの人生ということは忘れてはいけないなと思います。何度も擦り倒された言葉で頼りないですが、私はこの言葉を信じています。

 そもそも、自殺に対してどんな意見を持つかなんて絶対的な正解も結論も無いと思いますし(無宗教の場合)、自殺を選んだことはその人の人生における正解で結論だっただけだと思います。だから、単にその人は生きる権利を放棄しただけなんだなと。思っています。

 当然、自殺で亡くなってしまった身近な人たちに対して悔しい気持ちや悲しい気持ちはあります。気付けなかったこと1人にさせてしまったこと、いろんな生き方の選択肢があるのに、選択肢を一緒に広げられなかったこと、、挙げ出したらキリがないです。それはできなかったことなのでね。でも、自分でも薄々気付いてはいるんです。自分ができることの限界を超えていたことも亡くなった人たちの選んだ選択を変えられないことも。だから、仕方なかったことだと無理にでも割り切って生きていくしかないこともわかっています。

 自分が出来たことが全てだし、出来なかったことは後悔にしかならないし、他人の人生を生きているわけではないし、、

 後悔からあのときこうしていればの可能性に縋って、自分が何でもできると思い込んで、他人の人生の主役を奪いにかかってしまうし、、統制不可能な事実にも関わらず可能性に執着していつのまにか自分の人生を過ごせなくなります。


 頭の中の考えが伝わるように表現できないのでなんだかうまく伝わらなそうだなあ。悔しい。

まとめます。わからんので

どんなことであれ、自分ができたことが全てです。あなたの人生なのでできることをしてください。
人の心とか考えていることなんて魔法使いじゃないんでわからないです。ただ亡くなった人は繊細すぎてこの世に合わなかったと思います。
言葉にするのでどうか乗り越えさせてください。


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