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SNSと承認欲求、そして集団心理。

心理学で用いられる考え方や手法にはアドラー心理学などの個人心理学、対人交流について考える交流分析など様々なものがあります。

交流分析に関しては簡易にnoteに上げました。

SNSの普及は世界中の人々を『広く薄く』繋げているように見えます。
たくさんの人達と住む場所や立場の違い、人種や性別、国境すら超えて知る機会や共有する機会を提供してくれます。
匿名性(私も個人情報は原則上げないつもりでいます)を担保することで『広く薄く』はより強められます。

広くなればなるほど薄くなる

これがSNSなどのインターネットでの人付き合いの特徴なのでしょう。


薄まった人付き合いの世界、しかも匿名性が担保される。
その状況だと個々の心理はどうなるでしょうか。

SNSを続ける動機として、以下の2つの要素が挙げられます。
◆表現欲求と承認欲求
◆集団帰属意識
(私がnoteの記事を書くのも表現欲求とそれに対する承認欲求が存在することは否定しません。)

表現欲求と承認欲求は人なら誰でも持つ感情です。承認欲求はマズローの欲求段階では上から2番目に当たる比較的高度な欲求で、承認欲求が満たされると自己実現欲求の段階に至ると定義されます。

しかし、承認欲求が満たされるか否かは承認欲求が多いかどうか(量)に寄るのでしょうか?
私の答えは『必ずしもイエスではない』です。

たくさんのイイネがつく、たくさんRTされて拡散される、フォロワーが増える…目に見える数字に承認欲求が満たされることも多いでしょう。私もイイネを頂けば率直に嬉しいなと思います。

承認欲求の良い側面はモチベーションの維持に繋がることですが、良くない側面は『もっと承認されたい』と言う欲求のエスカレートが生じやすいことです。
もっと褒められたい、もっとイイネされたい、もっと目立ちたい、もっとフォロワーを増やしてインフルエンサーと呼ばれたい…。
たくさんの人達の発言の渦の中で、承認欲求を満たすためには、ヒトは何を考えるでしょうか。

◆人より露骨に目立つことをする
◆自分と意見や考えが合う人同士で盛り上げ合う
◆自分と意見が合わない人を糾弾することで注目される

このようなパターンになっていくことが多いのではないかと思います。
SNSを通じた市民活動(左派も右派もどちらもです)は極端な過激さを感じることが多く、率直に(かつ上から目線に感じるかも知れませんが)『下品』と思うものが増えました。
さらに本来選挙を通じて国会などで論争すべき国会議員や落選した議員候補などかそれに嬉々として乗っかる様子は本当に『下品』に見えます。

そんな彼らを見るにつけ、同じ価値観の人間だけが連んで集まり、相対する相手を攻撃するのはヒトの本能なのだろうと実感します。
SNSはそれを広く浅い人間関係(しかも匿名)の中で繰り広げるのですから、収集がつきにくくなることは予想に難くありませんよね。

そしてもうひとつ。安倍前首相へのデモや市民活動を繰り広げる人達やTwitterで有名なフェミニストを攻撃する人達に共通するのが『人柄(人格)への否定』と言う点。

発言や提案に『この人は一体…』と呆れたり、怒りを覚えたりすること自体は自由ですし、私にもよくあります。相手は見ないでしょうが、チクリと嫌味の乗った引用RTをすることもあります。

ただ人格否定をしようとはあまり考えたことがありません。綺麗事を言いたいわけではなく、純粋に『知らない人』だからです。前首相にしてもフェミニストの方々にしても、人柄や人格は普段からやりとりしている既知の相手でなければ『わからない』のです。
『知らない人』の言動の一部を切り取って、それがあたかもその人の全てであると扱うことは、『脱価値化』と呼ばれる認知の歪みに当たります(反対に良い点だけを切り取って過剰に信奉することを『理想化』と呼びます)。

インターネットやSNSで見せる『私』は非常に薄いもの。報道で流される政治家の姿も同じこと。キャラクターの全てを出しているわけではありません。SNSでの表現やコメントが私の全てではない、と言うことでもあります。それはきっとどの人も同じなのでは。

だからこそ、断片情報に過ぎないSNSの発言や意見を切り取って、誇張することは、他者の『脱価値化』を促す行為でもあります。
お互いに脱価値化したイメージ像を作り上げて、攻撃し合う…それが繰り広げられているのが現代のSNSの世界では一般的なのでしょう。

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