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一巡りしたなぁ

冬がやってきた。
南半球ニュージーランドでは冬至を迎え、いよいよ冬本番である。
日の出の時間は遅く、なかなか太陽が上がってこない。
暗いうちに家を出て、車を走らせるうちに日が昇ってくるのを見ると1日の始まりだ、という気分になる。
葡萄畑の地面は牧草で覆われているが霜で真っ白で、踏むとバリバリと音がする。
朝一の作業もソレルのスノーブーツにヘストラのグローブ、と雪山並みの装備で行う。
それでも太陽が上がり陽光を受けると汗ばむような温度になるので、作業の合間に帽子を取りジャケットを脱いでいく。
畑から見える山も雪化粧で、スキー場もぼちぼちオープンする時期だ。<br>
再び冬がやってきた。

葡萄畑で働き始め、そろそろ1年が経つ。
1年というサイクルで葡萄の生長を見てみたいと思い、その願いは叶ったと言えよう。
去年は何も分からずに言われた事だけをやっていたが、さすがに2ラウンドめになると季節ごとの作業の段取りも見えてくる。
そして今年から剪定、実際に枝を切る作業もするようになった。
選定はただ闇雲に切るのではなく、この後この葡萄がどういうふうに育っていくのかを考えながらやる。
木から長く伸ばす枝を1本、これはケインと呼ばれワイヤーに巻きつけ、ケインから伸びた枝に葡萄の実がなる。
そしてもう1本はスパーと呼ばれ、これは5cmぐらいの長さで切る。
スパーは来年用で、来年のケインはスパーから取るというのが基本のルールだ。
基本はそれでも相手は自然のものなので、不規則にいろいろなものができる。
病気だったり、向きが違ったり、細すぎたり太すぎたり、木自体が高くなりすぎたり、とにかくいろいろある。
1本1本が全て違うので、問題が全て違うパズルを解いているような、そんな気分になる。
すんなりと回答が見つかる木もあれば、「これがあーなってこーなって、ウーム」と考え込んでしまうような難問もある。
最初にやった時は考えすぎて脳ミソが汗をかいたようだった。
それでもやっているうちに少しづつコツも掴んでくるし、慣れた時に油断をして間違った枝を切ってしまうこともある。
作業はシンプルだが集中して頭を使うので時間があっというまに過ぎる。
ヒマでヒマで1日が長いなあ、などという仕事よりよっぽど建設的で健康的だ。
なによりブルシットジョブでない感が半端ない。
ちなみに僕がやっている農場での仕事のように、社会的に意味はあるが高収入を得られない仕事はブルシットジョブと区別されシットジョブというようだ。

こうやって毎日毎日、葡萄の木と接していると、木に対する思い入れも生まれる。
木を育てるというより、木に仕えるという言葉が正しいだろう。
実際に僕らがやっている仕事の全ては、葡萄にとって育ちやすい環境を整えるというものだ。
これは葡萄に限らず、地球上の農業全てに当てはまることだと思う。
農家がやっている事は、植物の特性を知りそれにあった環境を作ってあげることだ。
寒いのが苦手な植物は温室で育てるとか、病気や虫対策に薬をまいたりとか、影にならないようにとか風通しが良くなるよう雑草を駆除したり。<br>
まるで植物様に仕えるしもべじゃないか。
人間は万物の長などという言葉があるが、思い上がりもはなはだしい。<br>
シンプルに考えて、全ての動物は植物がなければ生きていけないが、植物は動物がなくても生存できる。
植物は自分の種を存続するのに有利なので、他の動物や鳥や虫を利用している。
人間だって植物に利用されているとも考えられる。
最近は農系ポッドキャストを聞いているが、その中でこんな事を言っていた。
「植物というのは生物学的に動物よりも優れている。自分が宇宙人で地球の事を何も知らずにやってきたら、人間より植物にコンタクトを取るだろう。」
実に面白い視点の話で、個人的には納得できる。
さらにその話の延長で、トウモロコシ宇宙人説は人類はトウモロコシに支配されているなんていう話も実に愉快でよろしい。
そうやって考えると、この地球上で人間とはどうしようもない存在だな。
地球にとって人間がガン細胞である、という例えは聞いた事があるが、そのガン細胞同士がいつまでも殺し合いをしている。
教科書に載っていない歴史だが、人類は過去に何回も大絶滅を繰り返している。
過去の絶滅では、この世の終わりが間近にあるのに人間は略奪や殺戮をやめなかった。
今の世の中とどう違う?

話が大きくそれた。
人間がどうしようもないという話ではなく、植物が優れているという話だ。
何と言っても植物は光合成ができる。
自分の中でエネルギーを作る事ができるというのは、動物には逆立ちしてもできないことだ。
他の生物の助けを借りなくても生きていける。
地球上で人間を始め、他の動物が絶滅しても植物は存続できる。
そんな優れた植物の致命的欠点は自分で動く事ができない。
それが故に動物や昆虫や鳥を利用したり、風で種子を遠くへ運んだり、様々なやり方で種を残している。
環境に合わせ自分自身の姿を変えるとも言えよう。
その環境を人間の科学と考えるならば、遺伝子組換えも植物の本意かもしれない。

ヨーロッパで生まれた葡萄という木は、実を肥やし菌と結託して葡萄酒という形で人間に味を覚えさせた。
味を知った人間は、種を海を越えて地球の裏側まで運んで栽培を始めた。
植物が知ったことでない人間界のドタバタ劇で仕事が無くなった僕が、今はせっせとその子孫の面倒を見ている。
壮大な話ではないか。
そんな葡萄のもくろみにまんまとはめられている自分を見るのが楽しくもある。
葡萄の陰謀を知りつつ、1本、また1本と枝を切っていく。
ひょんなことから葡萄畑で働き始めて1年。
季節は巡り、自然のサイクルの中に実を置く感覚は研ぎ澄まされていくような気がする。
葡萄との出会いもこれまたご縁というわけなのだろう。

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