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#31. 圧倒的な語彙があるから


聞き慣れない単語を、ここ最近二度、立て続けに聞いてしまった。

なお、英語ではない。日本語だ。

まず聞いたのは、「きょたん」。さてこの日本語、どういう意味か、わかるだろうか。ちなみにイントネーションは「美顔」と同じ。

すこし補足をすると、ぼくは近ごろ咳が止まらず、先日最寄りのマツモトキヨシで咳止めの薬を探していた。パッケージには「せき・たん」などと書かれた薬が、棚に何種類も並んでいた。

そんなとき店の薬剤師さんが駆けつけてくれ、一つ一つの薬について、効用などを説明していたとき、ふとこの言葉に遭遇した。

「こちらのものにも『キョタンさよう』がありますので......」

...... もうおわかりだろうか。この「きょたん」とは「去痰」のことで、つまり「痰を取り去る」という意味である。

医薬関連に携わる人でない限り、おそらくほとんどの日本人にとって、「去痰」は全く馴染みのない単語だろう。ぼくもこのとき、生まれて初めて耳にした。


次に聞いた日本語は、「せいう」。さてこれは一体、どういう意味だろうか。イントネーションは「セーフ」と同じ。

これを聞いたのは、今日同じ職場の大先輩と、傘の話をしていたときだ。

「最近は『セイウけんよう』の日傘もありますから......」

...... そう、言うまでもなく、この「せいう」とは「晴雨」、すなわち「晴れても雨が降っていても」使える日傘について、その方は話していたわけだ。

これは、先ほどの例よりもずっとわかりやすかったかもしれない。しかし、この「晴雨」という日本語を、いままで聞いたことがあるという人は、決して多くはないだろう。

「晴れ」と「雨」が「せい」と「う」という読みで一緒に使われる例といっても、「晴耕雨読」くらいしか、パッとは頭に浮かばない。


「去痰(きょたん)」に「晴雨(せいう)」、どちらも日本で暮らしていたって耳にすることはほとんどないし、ぼくに至っては両者ともに初耳であった。

しかしたいへん面白いことに、ぼくらはそれでも、初めて聞いたその音から、まずは漢字を推測して、そのだいたいの意味まで理解できてしまう。

上記の例、文面上ではわからなかったという人が中にはいるかもしれないが、実際その場に居合わせていたら、おそらくほとんどの日本人が、この「去痰」も「晴雨」も、難なく理解できたはずだ。

こういう芸当ができるのは、おそらくぼくらが日本語のネイティヴ・スピーカーだからだろう。

いやもうすこし正確に言えば、日本語のネイティヴ・スピーカーとして「圧倒的な語彙(と漢字)の蓄えがあるから」だ。

ぼくらは何気なくやっていることだが、これと同じことを日本語学習者がするのは意外と難しい。

「去痰」などは良い例で、「きょたん」という音を「去痰」という漢字にまで頭の中でつなげるためには、まず「痰」という単語を知っている必要があるし、通常「さ」という読みで使われる「去」という漢字が、場合によっては「きょ」という読みになることも知っていなければいけない。

「退去」・「除去」・「去来」などなど、どれも日本語学習者には、なかなかレベルの高い単語だ。

こういった知識がないと、たとえば、「きょたん」と聞いても、「もしかすると自分のまだ知らない漢字で書かれた『きょたん』なる謎の単語があるのかもしれない」とか「イブプロフェンとかコエンザイムとか、そういう類の『キョタン』と呼ばれる外来語かな」などと色んな可能性が浮かんでしまい、「去痰」にたどり着くことができない。

初めて耳にする単語が会話で飛び出してきたとき、それを自信をもって「自分の知らない漢字の単語ということはないだろうから、ということは......」と、無意識に頭で漢字を組み立て意味まで推測できる能力は、ネイティヴとしての圧倒的な語彙力に支えられているのである。

「知っている単語」が多いからこそ「知らない単語」もカバーできるというわけだ。

もちろん、これは英語でも同じである。

先日、アメリカ人の友人とカフェでお茶していたとき、ぼくが最近出遭った初見の英単語や慣用句などについて、「それはたしかによく使う」とか「それに関しては知識人ぶりたい人しか使わないかも」とか、そういう話をしていたのだが、その中に一つ、彼女も知らない単語があった。

それは hepeating(ヒーピーティング)という俗語。初耳なのも無理はない。ここ数年で使われ始めた若者言葉の類である。

スラングの宝庫 Urban Dictionary によれば、Hepeating の定義は:

The act of a man restating (either exactly or with some modification) the ideas of a woman soon after she has expressed them. Typically, the man will make these statements as though he were their original source.
女性が初めに出した考えを、そのすぐ後に、男性が(全く同じか少しだけ変えて)繰り返す行為。たいてい、その男性はそれらの発言を、まるで彼らが発案者であるかのように行う。

女性に知性で出し抜かれたくない男性が取る、アノ浅ましい行為である。

しかし驚いたことに、英語ネイティヴの彼女は、この単語を今まで全く聞いたことがなかったのにもかかわらず、ぼくが発音した瞬間にその意味を即座に推測して、なんと当ててしまったのだ。

どうしてそんなことができたのか、理由を聞いてみたところ、「だって mansplaining があるから」とのこと。...... ああなるほど、そういうことか。

この mansplaining(マンスプレイニング)というのは、「男性が女性に対して偉そうに(上から目線で)説明(または解説)すること」という意味の、やはりスラングである。いつごろ使われ始めたのかは定かではないが、同じスラングでも hepeating と比べれば圧倒的にメジャーであると言っていい。

意味を読んで勘づいた人もいるかもしれないが、この mansplain という単語、実は man と explain の二語が組み合わさってできている。「男の説明」はえてして上から目線になりがちという、若者の間の共通認識が生んだ言葉だろう。

彼女が hepeating の意味を推測できたのは、この音を聞いた瞬間に、この単語が( mansplain のように)he と repeat という二語からできていることを読み取ったからだ。he と repeat で hepeat、ぼくは彼女が mansplain を引き合いに出すまで、この成り立ちに気づかなかった。

これもやはり、ネイティヴのもつ、圧倒的な語彙があってこそ成せる業。繰り返しになるが、「知っている単語」が多いからこそ、たまに出てくる「知らない単語」もカバーできるというわけだ。

知らない単語はなくならない。けどだからこそ、「わからないこと」を少しでも減らしていくために、ぼくらは語彙を増やすのだろう。

ちなみにこれは余談だが、ネイティヴ並みの語彙力があっても、わけのわからない単語にはやはり、ときに出くわすことはある。

何年か前、自動車会社で働く親友との会話の中で「そうだかいひ」という日本語が出てきたことがある。これは正直、その意味はおろか、漢字すら全く浮かばなかった。

答えは「操舵回避」。「操舵」というのは「船などのかじを操ること」だそう。その回避 ...... これを書いている今も、実はさっぱりわかっていない。

彼がこの単語を使ってきたとき、ぼくは瞬時に「そうだかいひ」という音から「ソーダ回避」と解釈をして、「炭酸を、苦手な人が避けること ...... ?」などとぼんやり考えていたことは、できれば秘密にしておきたい。


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