#99. それほど役に立たない英語をなぜやるか
そんなつもりはなかったのに、英語をひとに教えている。
英語は好きだ。いや、大好きだ。英語で書かれた小説は読むし、ドラマや映画もたまに観る。LINE での会話は最近英語の方が多いくらいだし、彼らと会えば英語で話す。
間違いなく、英語を使って生きている。
それでもこういう仕事をしていると、こんなことをよく聞かれてしまう。
「英語ってなんで勉強しなくちゃいけないんですか?」
「英語っていらなくないですか?」
「日本人だから日本語ができれば十分で、わざわざ英語を勉強する必要性を感じません」
...... いやちょっと、そんなにたたみかけなくっても。
◇
では、英語と付き合っていく上で避けて通れないこの質問に対するぼくなりの答えを、今日はここに書いてみよう。
聞いてきた相手がだれであろうと、こういう質問をされたときの、ぼくの対応は決まっている。
まずはじっくりその人の考えを聴き、相手が一通り意見を言い終えたところでゆっくり、その目を見てこう言うのである。
「 ...... たしかに、そうですね」
以上、これだけである。
さて、読んでいる人は盛大な肩透かしを食らった気持ちかもしれないが、事実としてぼくは、日本人は「英語を勉強しなくちゃいけない」とは全く思わないし、日本でずうっと暮らして海外に出ないつもりなら、日本語ができれば十分だとも思っている。
だってそうじゃないですか?
学校では「大学受験で大切だから、英語は勉強しなさい」などと言われるし、大学に入学すると今度は「就職に有利だから、英語を勉強しときなさい」と諭されるし、就職をしてからもやっぱり「グローバル社会で活躍するのに必須なのだから、英語を(以下略)」という社会の圧は常にある。
もちろん、それぞれの意見は間違っていない。たしかに、英語が得意科目なら大学受験の苦労は少なくて済むだろうし、英語ができれば(できないよりは)就職のとき有利だろう。グローバル社会で世界を股にかけて活躍したいというならば、英語ができないと話にならないかもしれない。
とはいえ「役に立つ」と言っても所詮はこの程度のもので、ぼくが数年前に読んだ本によれば、日本で「英語を日常的に使っている」人の割合は 1~10% 程度であるとのこと。とすれば、割合として、日本人 100 人のうち 90~99 人は、英語ができなくても普通に暮らしているわけで、この状況下で「英語が必要不可欠」なレベルかというと、正直かなり微妙である。
そう。いままでずっと英語は必要であるとだれかに言われ続けて、来る日も来る日も電車で英会話スクールの広告をぼんやり眺めている中で、「さぞ英語って大切なんだろうなあ」と無意識に思い込まされてきたが、
ちょっと立ち止まってふと考えてみると、日本で生きる日本人にとって、英語がそんなに必要かどうかは、ダウトである。
悲しい話ではありますが、苦労して身につけたとしても、国内で暮らす日本人にとって、英語はあんまり役に立たないかもしれません。
◇
...... いやでも。でも、である。
たしかに役には立たないかもしれないけれども、じゃ勉強する意味まで全くないのかと言われれば、それは違う。全然違う。
この理由について説明するためすこしだけ、遠回りをさせてほしい。
◇
これは、ぼくが生きる上でいつも気にかけていることなのだが、「役に立ちこそしないけれども、存在している意味はある」というものが、ぼくらの日常にはたくさんある。
たとえば、ちょっと家の中を見まわしてみてほしい。みなさんの家にあるものはすべて、「役に立つ、必要不可欠な」ものだろうか。
おそらくよほどのミニマリストでもないかぎり、そういう人はほとんどいない。
もしも生活必需品だけの家があったら、それは洗濯機や冷蔵庫などの家電に、出かけるための衣服がほんのすこしある、なんとも味気ない家になるだろう。
しかし、ぼくらは家に、雑貨や絵画・ポスターなどの「必要不可欠でもなければ、とくべつ役にも立たないモノ」をよく置きたがるし、家電や服に関しても、ときに機能を犠牲にしてまでお洒落なものを買ったりする。
もしぼくたちが、「それは役に立つかどうか」という基準だけでモノを持つのだとしたならば、こんなことにはならないはず。なのにどうして?
ぼくたちがときに、それが役に立つものでないとわかっていても、なにかを求めることがあるのは、そこに「暮らしや人生を豊かにする」という意味があるからだ。
役に立つものには「暮らしを便利にする」という機能があるが、一方で、役に立たないものには「暮らしを豊かにする」効果があると、ぼくは思う。
仕事や勉強をするデスクに、ネコの可愛い置物があったり、好きなアーティストのポスターがあるだけで、そうでないよりも、心が満たされ毎日が輝く。
お出かけするとき、ただ防寒に特化した布をまとうのではなく、お気に入りの格好をしていくだけで、外にいる時間全体がグッと色鮮やかなものに変わっていく。
ぼくらの日常は、こんな「役には立たないが意味はある」もので溢れている。
◇
そして結局、ぼくたち日本人にとって、英語とはそういうものではないか?
英語はたしかに国内でほぼ役に立たない。ある程度できるようになるのに長い辛抱と苦労を要するわりに、使う機会はほとんどない。そういった意味で、日本で英語をやることはある種、楽器やダンスなどという「趣味・習い事」にも似た行為である。
それでも、楽器が弾けたりダンスができれば、そうでないよりもはるかに音楽生活が楽しくなるのと同じように、英語ができれば毎日がグッと色鮮やかで楽しいものになる。
たとえば、英語ができる人は、どこかで洋楽が聞こえてくれば、その歌詞をその場で理解して味わえる日常を生きている。
英語ができる人は、「どこかに旅行に行きたいなあ」と思ったとき、世界が射程圏内にある。
毎年クリスマスに、遠く離れた国から手紙とプレゼントが届く人生を想像したことはあるだろうか。
不安でどうしようもないとき、相談相手に「そんな風に考えるなんて、まったくお前は日本人だな。おれたちの国では、いちいちそんなこと心配しない。だからそんなのさっさと忘れて、今夜はとりあえず酒でも飲もうぜ」と笑い明かした夜の楽しさは、英語ができなければ味わえなかった。
◇
そうして思う。
そりゃ英語なんて別にできなくたってかまわない。
だけど、英語ができる人生は、英語ができない人生よりも、圧倒的に、豊かで、鮮やかで、そしてなにより、楽しいのである。
だから、「役に立たない」とか「いらない」とかそんな冷たいこと言わないで、一緒に英語を勉強してみませんか?