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#24. そしたら、助けるよ


幼いころからの親友に、ひとりのインド人がいる。

いや、インド人に似た男がいる。

肌は小麦色、顔のホリも日本人離れして深いので、小学生のころから「インド人」という雑なあだ名がついていた。

彼は、ぼくの親友の中でもひときわ異彩を放っていて、その最大の特徴は、「幼い小学生のまま、何も変わらず大人になったこと」。

濃い目の顔と、男にしては高い声、子どものように舌ったらずな話し方で、27 歳になっていまだに、週刊少年ジャンプのマンガ、『HUNTER×HUNTER』でぼろぼろ泣いた話をしてくる。

あるシーンでは、立ち読みの際あまりに号泣してしまったため、いちどコンビニを出てから息を落ち着け、涙を止めてもう一度入店したらしい。...... いや、買って読みなよ。

ちなみに、そんな話をする彼の服装は決まって、小学生が着るような、T シャツと短パンである。

彼とは小・中と同じ学校に通い、高校で道は分かれはしたが、同じ地区の高校で且つともにバスケ部だったので、大会などでは必ず顔を合わせていた。

大学に入ると、地元の旧友たちはこぞって東京で独り暮らしを始めたが、ぼくたち二人は各々の実家で暮らしを続け、就職活動中などは、よく地元の駅の居酒屋で、お互いを励まし合ったりもした。

「励まし合った」と言っても、ぼく自身はあまり多くの企業を受けなかったので、基本的には彼の話を聞いているだけ。

しかしここで聞く彼のエピソードが、毎回バツグンに面白かった。

まず彼は、初めて受ける企業に出した履歴書の「趣味」の欄に、あろうことか「ハリー・ポッター」と書いていた。

一次面接の日。当然、面接官はそこを突っ込みたくなったのだろう。「きみ趣味の欄に『ハリー・ポッター』って書いてるけど ...... 。では『ハリー・ポッター』の魅力を、今からわたしに説明してもらえますか?」

ぼくの親友である彼は、『ハリー・ポッター』の中でもとくに、スネイプ先生をこよなく愛する。「魅力を説明しなさい」と言われて彼は、面接のその会場で、スネイプ先生の「生い立ち」から始めて、その魅力をキッチリ熱弁したらしい。言い忘れていたが、この面接はグループ面接である。

彼の壮大な語りに周りの就活生はクスクスと笑い、ようやく話し終えたとき、面接官は「 ...... 本当に好きなんですね」と苦笑していたという。

しかし、この話を聞いた数日後、彼から突然電話が入り、その面接を通過したという報せを受けた。

その後も、たとえば彼は、「自分の強みは何ですか」という自己 PR 欄に「歯が白いことです」と真面目に書いたり(たしかに歯は白いが)、

面接の最後にある「なにか質問はありますか?」というお決まりの逆質問に、「どこかこの辺りにおいしいお店はありますか?」などと臆面もなく聞いたりと、本当に「大人」の「お」の字も見えない様子だった。

しかし、結果的に彼は、これら全ての面接を、ごく当たり前のように突破した。就職活動において、彼は事実上ほぼ無敗だったのである。

類稀なほど幸運に恵まれている人を指して、英語で "He leads a charmed life" と言うことがある。charmed は「魔法がかかった」という意味なので、直訳すれば「彼は魔法のかかった人生を送っている」ということだ。

彼はまさしく、その手の魔法に守られているように思えるが、それも彼が『ハリー・ポッター』を愛読してきたからなのだろうか。魔法使いの話を読めば、自分の人生にも魔法がかかる。もっと早くに知っておきたかった。

いずれにしても、聞くたび飛び出す幼稚極まりないエピソードの数々と、彼が面接を突破して着々と大人に近づいていくという事実。この二つは一見、矛盾しているように思えるけれども、ぼくは不思議と驚かなかった。

つまるところ、彼はそういう天才なのだ。出遭った全ての人間に、「また会って話してみたい」と思わせる魅力を持っている。

たくさん調べて得た知識も、英語の試験の点数も、その企業を切に思う熱意ですらも、この彼の持つ「かわいげ」のようなものに敵うことはないのかもしれない。

この種の魅力は天賦の才。ぼくなどが今から身につけようと思ったところで、身につくものでは決してない。「かわいげ」を身につけようと思っている者など、ちっともかわいくないのである。

大学を卒業してしばらく経ったいまも、ぼくたちの友人としての関係はまだ、続いている。

ここ数年、彼は周囲に「ゆとり世代」と言われるのが気に食わないらしい。

「なにが『ゆとり世代』だよ。上の世代は、死ぬ気で働いてたかもしれないけど、おれたちは死ぬ気で遊んでるんだ。なんならもっとゆとらせろ」

......「ゆとってない」と言うのかと思ったら、完全に開き直っている。

彼のこういう人としての魅力は、この先もずっと消えることはないだろうし、そんな彼がいまでも親友でいてくれている事実に対して、ぼくは感謝の気持ちしかない。

そんな彼と、大学での生活が終わり、ぼくたちがもう学生ではなくなったころ、珍しく将来の話をしたことがある。

昔から、「いま楽しければそれでいい」を体現しているような男。なにか将来のプランはあるのだろうか。

「う~ん、なんか、バーとかやりたいね」

...... いや、お前はそういう経験ないし、するつもりすらないだろうし、そもそもお酒を飲むときも、居酒屋にしか行かないだろうが。

まあ彼らしいと言えばそうかもしれない、なんとも間抜けでノープランの、小学生みたいな夢である。

「おれがバー開いたらお前もやるっしょ?お前が接客とかしてる間、おれは後ろでシャカシャカしてるから」

...... なんだそれ。自分のいまの知識や経験など関係なしに、見た目がカッコいいだけじゃないか。そもそも接客なら、そっちの方が 100 倍向いてるよ。

野暮だと知りつつぼくは返す。「いや、でもそういう全てがみんな、うまく行かなかったらどうするよ?世間はいま、絶賛不況中なんだ」

あまり詳しく覚えていないが、たしかその当時のぼくは、未来に対するえも言われぬ不安に、潰されそうになっていたのだと思う。

だから、人生に魔法がかかっているからといって、何事もその場のテンションで切り抜ける彼に、ぼくは聞いてみたかったのかもしれない。もしも全てに失敗したら、そのとき君はどうするのかと。

ぼくはダメ押しのようにこう続けた。

「 ...... おれだっていつ、どこにも働き口が無い状況にならないなんて言えないし。職にあぶれるなんてこと、いまはないなと思ってるけど、実際明日は我が身かもしれないんだ」

聞いていた彼がこう、即答した。

―――

『そしたら、助けるよ』

―――

たぶん、自分自身の快楽を最優先に考えて常に我が道を行く彼から、誰かを「助ける」という言葉が発せられたのを聞いたのは、小学生からの付き合いを通して、このときが初めてだったと思う。

それも、「あわよくば好かれよう」という魂胆とか、「そしたら絶対助けるからな!」という正義感とか、また「そんなことがあったら助けなきゃ!」という動揺すらも一切見えない、ただ「目の前に困った親友がいるんだから、そりゃ当然助けるでしょうよ」という一つの迷いもない声だった。

…… そうだよね。それが、友だちだもんね。

彼が挫折したらという話を聞くつもりだったのに、思いもかけず、突然自分が励まされてしまい、ぼくは続ける言葉を失くし、このときしばし硬直した。

しかしこの言葉にこそ、当時のぼくは救われ、あれからのぼくは救われてきて、いまでもずっと救われている。

言葉って不思議だ。いくら強い信念をもってコトバを重ねてもなお伝わらない思いがある一方で、なんのてらいもなく放たれた、たった 1 秒足らずのコトバが、誰かの心の糧になることもある。

自分になにかの試練が待ち受けているとき、どれだけ必死にあがいても、「失敗したらどうしよう」という不安を、完全に拭い去ることはできない。

しかも歳を取るにつれ、「一度失敗しても、まだまだ取り返しがつく」などと、そう気安くは言えなくなった。ここでしっかり決めなければというプレッシャーだけが、年齢とともに増していく。

でもそんなときいつもぼくは目を閉じ、彼がなんの気なしに放った『そしたら、助けるよ』の一言を、頭の中で再生する。ため息が一つ、消えていく。

実際に彼が、ぼくが失敗した先で、どうにかこうにか救ってくれるのかということは、正直なところわからない。というかそもそも、彼はそうやって自分が言ったことさえ、もう覚えてはいないだろう。

しかし、それでもいいのである。言葉とはえてして、そういう働きをするものだ。放った本人の意志とは離れた別のところで、芽を出し立派に成長し、いつしかその持ち主の心を支える、強い幹となっていく。

ぼくの心を、折れぬよういつも支えてくれる言葉の森の中心に、彼がいつか撒いた言葉の種が、成長し大木となってぼくを支えている …… なんてこと、彼に伝える日は来るだろうか。

さて、そんなこんなを綴っていたら、急にお腹が空いてしまった。

すると、まるで見計らっていたかのように、彼から LINE で着信が入った。

「やあ、ラーメン行こうぜ」

...... ああそうか。彼はインド人みたいな顔をしながら、無類のラーメン好きなんだった。


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