【短編小説】春は、ドブにて

 どうもならんかったね。何だろうこれは。どん詰まり、というのとも違う。詰まるような何かすら、なかった。
 行き止まり、これも違う。止まる所まで、歩いてもみなかった。
 外的な要因ではなくて、要するに、自分の中にパワーが足りなかったんだろうと思う。生まれつき。突破しようとか、踏み越えて行こうとかする力が、身体的にというよりは、気分の問題として、なかった。何もかもが、ならん。
 「どうもならん」
 ――と、ドブにきは、呟いた。
 仕事――という程立派なものでもない、合法的に人を脅したり騙したりするだけの簡単なお仕事を、何となくバックレた。バックレて海でも見に行きたかったが遠出が面倒なので徒歩圏内のドブに来た。近所の公園の脇にあるドブのせせらぎに、昼から耳を傾け、ドブよりもしょうもない人生だったと考えていた。
 体感としてああこれは春だねと感じられるようになった日だった、暖かい日だった、吐き気がするような3月だった。
 多分会社(笑)からと思われる電話が、着拒しても着拒してもかかってくる。事務所(笑)の回線と、社員(笑)の携帯と、手を変え品を変えかかってくる。いい加減にしろばか。出ま、せん。
 このどうにもならん感じ、どうしようともどうしたいとも思わない感じを小説か詩にしてSNS(依存中)に投稿しようかなと思ってスマホのメモ帳ににゅるにゅる、二行半程打ってみたが、着信が鬱陶しいのと、日差しが画面に入って見にくいのと、こんな愚痴を投稿して誰が面白がるのかという思いもあって、やめた。それに【仕事をバックレるなんて社会人としてどうなのでしょうか?!】 みたいなことを言われそうなのも嫌で。【辞めるにしてもせめて連絡したらどうでしょう?】 連絡して済むような人達じゃないからバックレたんだその辺りのニュアンスを予め文面に散りばめることも考えたがそんな気を使ってまで不特定多数にこのやれん感じを伝えて晒してどうなる、どうもならん、なんて考えているとまた知らない番号から着信があって、急にスマホという現象そのものがムカついて来て、ドブに、投げた。ぽちゃん、否、ぽてちん。
 「Wow」
 ――と、ドブにきは、呟いた。
 スマホには数少ない友人の番号や、親なんかの連絡先の情報が入っていた。それらの連絡先を、スマホがなかったら覚えてもいない。余計どん詰まっちゃった気分になり、否どん詰まるまで力を尽くしもしてもない人生だったんだったかと、グチャッとした文法で訂正し、何にしても新しいスマホを手に入れなければならないその手続きの面倒さを思うと総身萎えた。もともと萎えていたのが更に萎えて一周回って元気!なんてことにはならず、骨まで萎えた。全てがドブにきには煩雑だった。新しい仕事を探さなければならなかった。本当は、病院に行きたかった。こんなにずっと運が悪いのは何かの病気に違いなく、相談したいが国保は資格喪失でもう10年以上病院に行けてない。というか国保があってもなくても病院に行こうというのがまず思えないから同じか。てへ。良かった。おんなじだ。おんなじ。一生風邪引かないに賭けるクレヴァーな選択。既に3650日以上は勝ち続けた計算だ。このまま常勝するつもりだ。この常勝感をうねり上がるような文面で投稿しようと思ったがスマホ、ドブん中で。でも保険証があったら、保険証の提示を求めてくるようなちょっとまともぶった仕事も一応候補にはなってくるわけで、やっぱり保険証ないの痛いよなぁいつ事故や病気になるかも分からないし、分割払いって因みにおいくらくらいで?ってだけでも聞いてみようと一念発起、区役所に電話したいがスマホ、ドブん中なわけで。
 ベンチに仰向けになって、果てまで乾いた空を眺めながら、
「きょうは、あったかいなぁ」
 ――と、ドブにきは、やけにはっきり、呟いた。
 自分の行動に対して「やけに」って表現は何だか違和感があるのは何でなのかなとちょっと考えたが、分からなかった。雑木林の木の枝に葉っぱがたくさんついていて、揺れているから、涙が溢れた。泣きながら、あったかいなぁ、あったかいなぁ、とやけにはっきり繰り返し、この悲しい程の春をスタッカートで歌おうと思ったが、スマホ、ドブで。 
 いや待て実際のところ今ってスタッカートとかしてる場合じゃなくやっぱりスマホ喪失したのは、当座のこととしてだいぶヤバいんでないかという現実的な気持ちがこみ上げて来て、ドブにきの頬から嘘泣きの涙が引く。仕事探すためにスマホは必要で、仕事そのものが面倒なのにまず仕事探すのが面倒で探すためのスマホ買わなきゃなのが面倒で、何段階あんのこれ。もう全て捨ててどこかに行ってしまいたい。木の実がなっていたら、食べる。なっていなかったら、飢える。それで、良かったのに、何段階、あるんですか。生まれたときから見渡す限りあらゆる全てが他人のものということになっていた。他人の土地の他人の樹木に他人の木のみがなっていた、ドブにきにはたった一本の樹木すら残されていず、ただひと粒の実もドブにきのものではなかった。火のない所に煙は立たずみたいなリズムで木のない所に木の実はならず、かろうじて道だけは歩くことが許されていた。ふざけたルールだ。離脱したい。離脱、したい。ちゃんと木のみのある暮らしがしたい。ドブにきには全てが煩雑だった。にっちもさっちも。「にっちって何だろう」一回踏み外すとね、落ちるとこまで。「さっちって誰よ」落ちてゆく。落ちてゆく。蟻地獄だ。走れ。走れ。蟻地獄なのだ。走れ! 止まるな!! 蟻地獄なのだぞ! 休むな! 歩くなバカ走れ!! 走れ!!! 走れ!(笑)笑う。泣く。笑う。どこで間違ったんだろう。全部間違ったんだろう。にっちゃんとさっちゃんは親友同士、二人とも愚鈍で、何をするにも失敗ばかりで埒あかぬって投稿したいがスマホドブ。ドブドブドブドブスマホドブ、って無季自由律、俳句できちゃって、投稿したいがスマホドブ。
 でもさ……、防水仕様。
 だったとしたら?
 あのスマホ、防水仕様だったという記憶はないが、防水仕様でなかったという記憶も、ない。防水……かも……?
 
 奇しくも今日は、小春日和。
 
 ごと行くよ。服ごと、ダーイブ!
 夏じゃないからね。冷たいと思うでしょ。冷たいさ。でも冬じゃないからね。死ぬ程じゃぁない。風邪なんか引かないよ、一生引かないって決めたんだ。虫歯も頭痛も、捻挫も腹痛も峻拒する。
 息を止め虹色の禍々しいドブをさらいながらとっくの昔に別れた女の青竹よりも冷たい鼻筋を思い出す。
 どちらが悪くて別れたとかではなくて、フェアに冷め合って別れたのだと思っていたが、今日、現実として、自ら投げ捨てたスマホをドブの中に胸まで浸かってさらっている自己を俯瞰すれば、あれは、やはり、俺が悪かったのだろうな、と自然に思えた。あの女より幸せになってはいけないのだ、と、スッと腑に落ちるものがあり、ドブに顔まで、頭まで、全部浸かり込んで、じゅうぶんだろう? どどめ色のヘドロ、紫の油、なんか、うんこ、こほ、こぽ〜! 咳き込み、「じゅうぶんだろう? これよりはマシな暮らしをしているだろう? 悪かったよ」ごボポ、こぽホ、スマホ、どうでもいい。スマホとか関係なくこの小春日にドブに浸かっていることそれ自体が私を慰める。儀式、なのだ。儀式なのだ。儀式なの、だ。ドブみたいな人生の人が今、実在のドブに浸かり保護色、だ。やっと見つけたここが僕のシャングリ・ラ。
 花が、
 咲いたのだ。
 あ、間違えた、女児たちの声。ドブの瘴気にトチ狂って声の聴覚情報と花の視覚情報が脳髄付近にピッセ・ブィアスィルしたようだ。とにかくめいめい女児たちは、花のように視認される白い香りの声を上げながら、ドブ際までやって来た。キャピー!キュぬヌ゙ん!とドブにきには理解できぬ言語をその四つの口々から次々発芽、茎を伸ばし、茎の先にコーカソイドの皮に似た色の花弁を咲き垂らす。
 四名、身長はどれも120センチ強、お友達同士と見える。女児たちは、ドブに浸る者の存在には気付いていない。ドブにきは、頼む、気付かないでくれ、願い、音を立てぬよう、顎まで沈み込む。ドブの中にいることが何だか急に恥ずかしいことのように思えて来たのだ。
「しゅりユにー」
「しゅ!」
 「行けるって!」
「落ちたらキュフテヌ゙ん!」
「大丈夫だってば私ルリュうルンぬ!」
 日本語だった。
 ドブを飛び越えて行こうよ、俊敏にね、獣のようにさ、いや危ないよ、大丈夫だってば、わたし最初に行くね、おおむねそのような会話らしい。にっちゃんはどの子だろう?さっちゃんは?
 四人のうち二人はシュッとスリムで二人はぽちゃぽちゃ太っている。この可愛らしい太っちょの二人がにっちゃんとさっちゃんに違いないそれ以外の世界線はあり得ないにっちゃんとさっちゃんは真の友達で本当は二人きりで遊んでもいいのだが、スリムな二人は太ったにっちゃんとさっちゃんを側に置くことで自分達のスリムさを強調したくていつもそのためだけににっちゃんとさっちゃんを連れ回している。愚鈍なにっちゃんとさっちゃんは愚鈍ではありながら純真だし無垢なので自分たちが利用されていることに気付かず誘われたらあながち渋々というわけでもなくついていく、そんな流れがあっての今日、――ドブにて。
 初めに、立ち幅飛びのやり方で、スリムな女児①が飛んだのだ。オルガンの高い音が持続して鳴るような軌道、ふわぁ、体重に比べて筋力が強そうな、しゅたっ、という着地。それからスリムな女児②が少し助走して、踏み切って、飛んだ。これも体重に対してじゅうぶん過ぎる筋力を備えた者だけが描ける軌道だった。後ろにキラキラと酸っぱい星屑が散るようだった。それは健康なユニコーンの豊かな尾のようだった。ドブにきは稀な天体ショーを見た気持ちでその尾の残像を眺め上げていた。
 が問題は太っちょのにっちゃん、及びさっちゃんだ。
「ハイ! 次、にっちゃんの番っ!」
 とスリムな女児①が対岸から叫ぶ。
「わたし達にできたんだから、にっちゃんとさっちゃんにもできるッ!」
 とスリムな女児②が断言する。これを聞き、女児②は没論理的な子であるようだと没ドブ的なドブにきは分析する。
 にっちゃんとさっちゃんは、ちょっと困ったように、互いの愚鈍な顔を覗き合う。
 いやぁ、やめといた方がいいだろうね、無理しない方がいい、とドブにきは思う。
「できるかしゅら」
 と言うにっちゃんの舌が短い。
「どうきゃしゅら」
 と応えるさっちゃんの舌はもっと短い。
「早くぅ!」とスリムな女児①。
「置いてっちゃうよ!早く来なって!」とスリムな女児②。
 やめといた方がいいな、どう見てもにっちゃんとさっちゃんの身体能力で飛べる幅じゃぁない。やめといた方がいい。
 というドブにきの願いも虚しく、とうとうにっちゃん、太った膝を深く曲げ、「んー!」と気合いを入れて、ポヨ~ン!
 寄りにも寄って助走をつけないで行く。せめて助走すればよいのにと思う暇もない、案の定全然飛距離が足りていず、にっちゃん、ドブに、落ち……ない! 
「たん! たんたんっ!たー!ん」
 とにっちゃんは叫んだのだ。そのひとつびとつのたん!の度ににっちゃんの足下には架空の足場が現れ、
一歩、
  二歩、
     三歩、
 そして、   四歩、
   虚空を、
 踏んで、
   宙を、
 歩いた。
 どんなトリックなのか奇跡なのかと考える程の脳のゆとりもなくドブにきが呆気にとられていると、今度はさっちゃんが、「とぉ!」だか「タァ!」だか言ってジャンプ、さっちゃんもやっぱり脚力が足りていず、あ、今度こそ落ちる、と思ったら、さっちゃんの落下運動がピタリ、停止、
「にんにん!」
 (と、この時、さっちゃんは明確に発音した。)
 ブゔブ、ゥ゙ブん、、、さっちゃんの身体全体に紗がかかったようになって、ヴン……、さっちゃんの身体が向こう岸の、それもかなり向こうの方に現れた。否、出現した。控えめに言って、テレポーテーションだった。
 スリムな女児①、同②、及びにっちゃんは、さっちゃんの行方を一瞬見失っていたが、すぐに自分達の後方にいるさっちゃんに気付き、あわわ!そんな所に! と驚く。当のさっちゃんは、
「うわあ飛べた~ドキゅドキゅしゅた〜」
 と胸に手をあてるのが少し芝居がかって見えた。四人の女児達は、一人の犠牲もなく全員が無事にドブを飛び越えられたことを喜び合い、称え合い、春に侵されひとしきり、芽吹き合っていた。
 ドブにきはと言えばたった今、目の前に繰り広げられた光景に全てを忘れていた。スマホのことも、仕事のことも、木の実のことも、生まれて来たことの意味も今、どうでも良かった。無意識に立ち上がり、ただ純粋な好奇心から、
「今の、どうやったの?」
 ドブから女児達に、――主ににっちゃんとさっちゃんに――、問うた。四人は同時にドブにきの存在に気付き、「きゃあーーー!」「わわ! ドブおじだぁ!!」一斉に悲鳴を上げて、逃げて行く。①②は素晴らしいその脚力で真っ先に逃げて行く。遅れてにっちゃんとさっちゃんもかけて行く。きゃあーーー。
 「待ってよ、怖くないよ。待って、聞きたいだけなんだよ」
 と必死に叫びドブの淵に手をかけ、「にっちゃん、待って、さっきのやつ、たんたんっ!てやつ、どうやったの? さっちゃんは、くノ一なの? どういう仕組みなの?」
 ①及び②はその真っ当な脚力により既にかなり遠くまで駆けて行ってしまっており追いつけそうにない。が、にっちゃんとさっちゃんにはドブにきの走力でも何とか追いつけそうだ。と、思った矢先、「たん!タ!たんたん!」 ヴぅ゙ぅ゙ぅ゙ぅ゙、「にんにん!」……ヴン。
「それそれ!それ何をどうやってるのかだけ教えて欲しいだけなんだ、ね? 怖くないよ」
 と言うのに、にっちゃん、さっちゃん、タンタン!たたたたたたたん! ぅ゙ぅ゙ぅ゙、にんにんヴン!ぅ゙ぃ〜ん。謎の移動手段を駆使して遠く高く、高く、遠く、空へ、空へ、タンタン!たん! ぅ゙んーゔゔゥ゙ん、たん!たん!たん! ゥ゙ーン、ゥ゙ゥ゙、チート過ぎる経路でたんたんにんにん、国道も高速も、河川も線路もお構いなしに越えてゆき、多分栃木かそこらの山脈のあっち側まで、行っちゃって、やがてそのたんたんにんにんの声も聞こえなくなった時、深い静寂の中にドブだけがせせらいでいた。

 もうダイブするような気分はなく、すごすごとドブに帰り、やっと底から探り当てたスマホは結果、防水ではなく、うんともすんとも言わないのだった。寒さにブルブル震えながらベンチに腰を掛けて、油やヘドロや藻のついたスマホ、その薄っぺらい暗黒を、スワイプ、スクロール、タップ、タップ、ピルエット……、スワイプ……、タップ……、黙っていては、やり切れぬので、
「『ドブオジ』? いや、『ドブおじ』か。あるいは『ドブにき』。……『ドブ物語』も悪くはない。離脱、脱落、そこは、『離脱』だろうね。うん、愚痴ではなく、このままの生を肯定しようとするラストにすれば良い。よくもまあ浅瀬でここまでもがいたものだ。いよいよ本番なんだ。うん、やれそうだ。生きているのだ。クシュン。と、擬音で風邪を匂わせて終わるのは、ちょっと技工が過ぎるだろうか」
 この人、死ぬまで浮かれてんだろうね。
 春は、ドブにて。
 日没。

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