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頭の中の映画

 昔から空想癖のようなものがあって、隙あらば妄想の世界に入り込んでいた。

 子供の頃はまだ妄想の内容のバリエーションは豊かだった気がするが、大人になるにつれて徐々に固定化されていった。舞台や登場人物は毎回異なるものの、大まかな筋書きは大体いつも一緒。ここでは詳細は書かないが、メインテーマは喪失とその否定。

 頭の中で上映開始すると、物語はひとりでに動き出す。時折巻き戻して台詞を書き変える。僕の、僕による、僕のための映画。全てが僕の好みに合わせて、僕が安全に涙を流せるように作られている。

 頭の中の映画をそのまま書き起こすことはできない。あまりにもオーダーメイドで、僕の歪な心にぴったりフィットし過ぎている。小説に落とし込めるのは断片だけ。僕だけの物語を、他人の目で品定めされたくない。

 物語に入り込んでいる間は快適だ。できればそこから出たくない。現実に引き戻されるのは不快だ。目を覆いたくなる。

 でもそうやって自分だけの世界に引きこもり続けるのは良くないとわかっていた。だからやめようと思った。ちゃんと地に足をつけて現実を生きようと。

 その試みはある程度成功した。空想に片足を突っ込んだまま生活することがなくなった。そしてどうなったかというと、何にも集中できないし、考え事をしているようないないような状態でぼんやりしてしまうし、現実世界それ自体が映画のように少し遠く感じられるようになった。

 空想をなくしたところで、現実を生きられるようにはならなかった。

 空想に依存するからには、依存するだけの理由があるのだ。依存行為を無理にやめたところで、原因がそのままなら別のところに歪みが出るだけだ。

 現実をまっすぐ見つめられるほど心が強くない。ファンタジーのフィルターが要る。頭の中の映画のように没入するものでなくとも、常にBGMとして流し続けられるような幻想が必要だ。

 きっと誰しもそうなのだ。人によってはそのフィルターがフィクションとして市場に出回っている物語であったり、推しの存在であったり、宗教であったり、科学であったり、資本主義であったり、スピリチュアルであったり、ナショナリズムであったりするだけなのだ。

 人は弱い。ただ現実を生きることすらできないほどに弱い。いや、人の作り上げた「現実」である社会が、人間にとってあまりに過酷なのかもしれない。

 辛いから歪む。自分を守るために幻の敵を攻撃する。間違わなければ耐えられない。

 現実が人の住める温度になるまでは、人にはファンタジーが必要だ。より住みやすい形に現実を変えていけるような、みんなが共有できるファンタジーが。

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