見出し画像

誘惑って何だろう

 誘惑という概念がちょっと嫌いだ。

 責任逃れに使われ得るから。

 「誘惑された」と主張すれば、自分の言動の原因を相手に帰することができる。

 相手が本当に誘惑する意図を持っていたかどうかなんて確かめようがない。誰にでもするような親切だったのかもしれないし、着たい服を着ていただけかもしれない。誘惑するつもりなんてなかったと本人が否定したところで、信じてもらえなければそれまでだ。誰にも確かめようがないのだから。

 相手が誘惑者の烙印を押され、自業自得と見捨てられたなら、誘惑されたと主張した側は免罪される。事実がどうであれ。

 誘惑という詭弁は自分の心を騙すのにも便利だ。

 どうしようもなく惹かれる。気もそぞろで普段通りの生活ができなくなる。反道徳的な願望が頭をもたげる。自分をコントロールできなくなる。その恐怖。

 相手が自分を誘惑しているということにさえすれば、自分がおかしいのではないかと疑わずに済む。自分自身を咎めることなく欲望のままに振る舞うことができる。

 「お前が怒らせるのが悪い。殴りたくなんかなかったのに、お前が殴るように仕向けた」というDVの論理と同じだ。相手を傷つけておきながら「お前が誘惑したからだ」と責任転嫁するのは、吐き気がするほど卑怯な手口だ。

 しかし、誘惑という概念が、誘惑者に仕立て上げられる側にとって有利に働くこともあるかもしれない。

 例えば、どうせ誘惑したと疑われるのなら、先手を打って本当に誘惑してしまうという戦略。

 結果として似たようなことが起こるとしても、状況に翻弄される無力な被害者でいるよりは、自分の行為の結果と受け止めることができたほうが楽かもしれない。主体性のある人間としてのプライドを保つことができるかもしれない。それは悲しくも切実な自己防衛だ。

 いずれにしても、強い側に都合良く利用される言葉は嫌だな、と思う。


 とりとめもなく書いてきたが、最後に一言でまとめるとするなら。

 テメーの心はテメーで引き受けろ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?