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ジェンダー規範の圧を感じる

 トランスジェンダーでノンバイナリーでアロマンティックでアセクシャル、みたいな属性で生きようとすると、性に関して全方位から圧力を感じる。

 出生時に割り当てられた性別に基づいて、「お前は女だ」とか。

 「(たとえトランスジェンダーであっても)性別には男と女の二種類しかない」とか。

 「恋をしないのは人間として不完全」とか。

 人の価値が性的な魅力によって決められていたりとか。

 その上で女性全般にかかる抑圧も普通にのしかかってくる。

 自分の性別や性的指向について自分自身が感じていることを、常に「そんなはずはない」と否定され続ける。面と向かって差別やいじめを受けなくても、あらゆるメディアや周りの人々の常識が男女二元論の異性愛主義を前提に成り立っているのだから、自分のほうが間違っていると思わされてしまう。生まれた時からガスライティングを受け続けているようなものだ。自分の感覚や感情を信じられなくなる。

 そんなの病むじゃん。病んで当たり前じゃん。深海魚じゃないんだから圧かけられたら潰れるよ。

 圧力の正体は、人はこうあるはずとか女はこうするべきとかいう規範意識で、規範から外れることを許さない潔癖さが強いほど圧が強まる。厳しい品質基準をクリアした少数の人間だけがのびのび生きられる社会になる。しかし規範を決める権力を持っているのは大抵そういう規格の内側にいる強者の集団だ。

 彼らは普通に生きていれば規格内に収まるので、基準に合わせられないのは努力が足りないからだと考えがちだ。そこにどうしても越えられない壁があると気付かずにいられるのが強者の特権というものだ。

 規格の外側にしかいられない者は、まずそこに透明な壁が存在するということを証明しなければならない。壁をなくすべきだと説得しなければならない。壁の存在を疑い、面倒臭そうに耳を塞ぎ、あらゆる理屈で規格を正当化しようとしている人間を相手に。そうしなければ規格を変えられないから。

 それだけの労力をかけてまで伝えようとしている訴えは、「潰さないでください」というだけのことだ。どう感じるのが正しいのかを勝手に決めて、僕らの心と人生の決定権を奪うのをやめてほしいだけだ。ただそれだけのために命懸けで戦わなければならないこと自体が理不尽でもある。

 私は寛容だ、違う考えの人も受け入れると安心している人もいるかもしれないが、何様のつもりだと思う。反対語を考えてみればわかる。不寛容、受け入れない。それはつまり、「基準に合わせて変われないならあなたがここに存在することを許さない」という意味だ。「寛容」「受け入れる」という言葉は、「私はあなたを殺さないでいてあげますよ」と言っているに過ぎない。有難いといえば有難いが、偉そうに言うことでもない。

 とかまた例によって偉そうに語っているが、かく言う僕も色々な特権性を持っていて、知らないうちに多くの人に圧をかけていると思う。様々な人のことを学んでいきたい気持ちはあるが、自分のことで手一杯というのが正直なところでもある。ここでなら好き勝手言えるが、いざ反論されたらやっぱり自分が間違っていたかもとすぐに折れてしまうし、ちょっと頑張ると体調を崩すし。戦うことも誰かに手を差し伸べることもできないかもしれないが、せめて違いに寛容でありたい。誰も殺したくないから。

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