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立ち上がらない自由

 傷付いても弱っても生き延びられるというのは幸せなことなのだろうか。

 現代日本でそう簡単に人は死なない。怪我や病気をしても高度な医療がある。福祉がある。様々なサポートをする職業の人がいる。

 人を助けたいという思いは尊い。救われる人もたくさんいる。心身共に健康で「普通」の人しか存在を許されない世の中よりも、色々な人が抑圧されずに生きられる世の中のほうが良い、けれど。

 支援があるからこそ、諦めることが許されない気がする。降参してはならない、何度倒れても立ち上がらなければならない。頑張ることに疲れてしまってもう舞台から降りたいと願っても、まだこういう策がある、こうすればまた戦えるようになると鼓舞される。

 必死になって立ち上がって、喘ぎながら歩いて、その先に頑張って良かったと思えるものがあるだろうか。聞こえてくる美談は生存者バイアスで歪められている。苦しかったあの時にも意味はあるのだと、誰だって思いたいから。

 命を救うというのはいつだって一時的な延命だ。死神の訪問を延期してもらうことはできても、取りやめてもらうことはできない。

 それでも無駄とは思わない。まだ生きたい、死ぬ心づもりができていない、なのに死ななければならない、そんな無念の死を減らすことができるから。

 でももういいと言っている人まで生存に駆り立てるのは、果たしてその人を幸せにするだろうか。死以外に道はないと視野が狭くなっているのでもなく、自暴自棄になっているのでもないのなら、もう充分に生きたという思いを否定する権利が誰にあるだろう。

 命を救うことと同じくらい、死に方を選ぶことが重視されたって良いはずだ。将来の夢を考えるのと同じくらい、どう死にたいか考えることにも意味があるはずだ。必ず訪れる未来から目を逸らし続ける生はどこか歪だ。

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