見出し画像

奪う痛みを抱えて生きる

 幼い頃から動物好きだったこともあって、人が他の生き物の命を奪わなければ生きていけないことについてよく考えていた。

 人に限らず従属栄養生物は、自力で生産できない栄養素を他の生物から摂取しないと生きられない。その事実はどうすることもできない。動物の肉を口にしなかったとしても、植物や昆虫や菌類だって生きているのだから、やっぱり何かの命を食べて生きなければならない。

 命は何よりも大切だと一方では訴えながら、大切な命と大切でない命を区別している。守るべき「私たち」の命と、それ以外のどうでもいい命がある。「私たち」の境界は時に国籍であったり人種であったり宗教であったりもするが、人間以外の生物にまで仲間意識を広げるなら、仲間を殺して生きる矛盾に直面することになる。

 地球に単細胞生物しか存在しなかった時代のある瞬間、生存に必要なものを他の生命体から奪うという生存戦略が発明された。

 それから長い長い時を経て、多大な労力をかけて子を育てる哺乳類が生まれ、同種の生物で群れを作る種が出現し、群れのメンバーに対する共感性が発達した。共感性は別種の生き物にまで向けられるほど高度なものになった。

 奪わなければ生きられないのに、奪われるものに同情する生き物。そういう矛盾した存在に進化した。進化には目的も筋書きもない。たまたまそういう性質を獲得したものがたまたま生き延びて、たまたま矛盾を孕むことになっただけ。

 人が何らかの意図をもって設計された存在ならば、きっとこんな矛盾は起こらない。人間というのは多分、計画性のない増改築を繰り返して膨張した家みたいな、筋の通らないアンバランスな存在だ。窓のすぐ外が壁だったり、ドアを開けたら空中に出たりするのだ。そういう不可解な構造をすべて合理的に作り変えようとするなら、より一層の歪みを生むか、大々的にぶち壊して建て直すしかない。

 この矛盾を根本から解消することはできないし、する必要もないと思う。健全な形で痛みを抱え続けることが、バランスの取れたあり方ではないだろうか。

 人と動物が食い食われる対等な関係であった時代には、このことについて深く考える必要もなかったかもしれない。だが今や人間は絶対的強者として地球に君臨しているように見える。命を奪って生きることを完全に正当化し、ためらいを感じなくなってしまったら、人類の横暴を止めるものはもう何もない。

 共感があるから手酷く扱うことに抵抗を感じるし、糧となってくれたことに感謝と畏敬の念を覚える。そうしてありがたさを感じながら大切にいただくというのが健康な心の持ちようではないかと思う。

 そうできないのは、動物が虐げられ過ぎている現状があるからではないか。安い食肉がなぜ安いのか想像する痛みは強過ぎて抱えていられないから、正当化するか見ないふりをするしかないのかもしれない。動物がより人道的に扱われることで、問題を直視できるようになり、人と動物の関係がより健全なものになるように思う。

 動物の待遇を改善することは、動物の福祉だけの問題ではないとも思う。敵対している国の人々や別の人種を動物にたとえて貶めることは、歴史上何度も行われてきた。動物の尊厳を無視することができるなら、「私たち」以外の人間に対しても同じことができる。

 とはいえ動物の犠牲の上に成り立つものを全て拒否することも難しい。例えば家畜にストレスをかけないように飼育して得られた食肉や卵などは価格が高いし、薬品の安全性を確認するには実験動物が使われている。肉も卵も食べない、肉食性のペットにも与えない、薬も化粧品も使わないというのは、相当ハードルの高い生活になる。

 時代の標準に逆らうにはやっぱりエネルギーが要るし、今の自分にはそれだけの余力もないから、飼育環境が多少マシかなと思ってなるべく国産の肉を選ぶようにしたり、余裕がある時は平飼い卵を買ったり、そんな地味な活動で何となく精神の均衡を保っている。そして人間を含めあらゆる生き物が誇り高くその生を全うできるよう祈る。痛みを感じながら祈る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?