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攻撃の裏にあるもの

 苛烈なヘイトの背景には恐怖が巣食っている場合が結構あると思う。

 例えば100年前の日本で起きた朝鮮人虐殺。朝鮮人は隙あらば日本人に危害を加えようとするはずだという恐怖があったから、デマが広まり、信じられてしまったのではないか。

 アメリカで黒人が白人警官に殺害された事件などを見ても、よほど黒人が怖いのだろうなと思うことがある。黒人の持つ力と敵意を実際よりもずっと大きく見積もってしまい、過剰防衛的に攻撃してしまっているようにも見える。

 この場合、相手を過剰に危険な存在とみなしてしまうのは、恨まれている自覚があるからだと思う。彼らは侵略され、虐げられ、人としての尊厳を踏み躙られて、復讐に燃えているはずだ、と。殺したいほど我々を憎んでいるはずだと。

 復讐されるかもしれない恐怖に取り憑かれた目には、何気なくポケットに入れた手が凶器を取り出そうとしているように見える。そして幻の復讐を阻止しようと反撃する。相手がポケットから出そうとしたのは飴玉だったと、気付いた時にはもう手遅れだ。

 恐怖からヘイトが生まれるということは、ヘイトを高めたければ恐怖を煽るのが効果的だということでもある。女子トイレに男が入ってきて性犯罪が増えるなどと煽ってトランス女性を排除しようとするのもこの手のやり口だろう。

 しかし実際マイノリティがそう簡単にマジョリティを攻撃するかというと疑問である。マイノリティ対マジョリティの全面対決になった場合、徹底的に叩き潰されるのはマイノリティの側だからだ。マジョリティのご機嫌を損ねたらどうなるか、マイノリティはよく知っている。それに対してマジョリティは大したリスクを負うこともなく気軽にマイノリティを攻撃できる。

 マイノリティに対して恐怖というほどの感情はなかったとしても、ぼんやりした嫌悪感が素朴な多数決の原理と結び付けば強力な抑圧になるだろう。多数決で出た結果が常に正当だと考えるなら、多数者のために少数者が我慢するのは当たり前ということになる。

 トロッコ問題という有名な思考実験がある。近付いてくる暴走列車。二股の線路。右の線路には作業員が1人、左の線路には5人。どちらの線路に列車を走らせるか、つまり1人の命と5人の命のどちらを捨てるか、あなたが選ばなければならない。

 1人を見捨てて5人を助ける選択をする人は多いだろう。それはそれで合理的な結論だ。

 ただし現実には、左側の5人は線路の真上にはいない。列車が通れば怖い思いはするだろうが死ぬことはない。右側の線路の上にいる1人は、5人の「安心」のために死ぬのだ。

 今は左側の線路にいる人も、何かの拍子に右側に放り出されてしまう可能性は充分にある。少数者が犠牲になるのが当たり前と信じていたその人は、自分が犠牲を強いられる側になったら潔く死ぬのだろうか。僕はそんな殺伐とした世の中に生きたくはない。

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