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『かさじぞう』(笠地蔵)という昔話。

貧しくも心清らかな老夫婦が
路傍のお地蔵さんに笠をかぶせてやると、
恩返しとして贈り物をもらった、という物語!

私も昔「読み聞かせ」で聞きました。
市原悦子さんのナレーションで
「まんが日本昔ばなし」で、観た気もする。

…あれって、お地蔵さんは
確か、複数いましたよね?


一体のお地蔵さんでは、なかった。
「贈り物をたくさん運ぶのが大変だから
何体もいたのかな…」と適当に
考えていたんですけれども。

調べてみると「六体」が、多いんです。
(注:下の動画ではおじいさんが自分の傘を
かぶせるという演出で「七体」になっています。
ただし七体目は、小さい)↓

3人や4人でもなく、11人でも、ない。
(「11人いる!」になってしまいますので)

お地蔵さんは「六体一組」が多い…?
これには理由があるそうなんです。
本記事では、この理由について書きます。

結論から言っちゃいますと、これは
仏教の「六道」(ろくどう・りくどう)
という思想が関係してくるんですね。

六道。

仏教では「輪廻転生」という考えがありますが
衆生(しゅじょう)、つまり
「生きとし生けるもの」が
ぐるぐると六つの世界を回っている。

道を、歩いているんです。

◆天道
◆人間道
◆修羅道
◆畜生道
◆餓鬼道
◆地獄道

この六つの道。それぞれにお地蔵さんがいて、
衆生を救う
、と言われております。
なので、お地蔵さんは
「六体一組」になっていることが多いんです。

「天道」には、天人が住んでいます。
「人間道」は、人間が住む「この世の中」。
「修羅道」は、阿修羅が住んでいる。争いの世。
「畜生道」は、鳥・獣・虫などの世。
「餓鬼道」は、欲望にまみれた餓鬼が住んでいる。
「地獄道」は、いわゆる「地獄」ですね。

それで「人間道」においては
「四苦八苦」に悩まされる、
と仏教では説いていきます。

生・老・病・死。この四苦が基本。
生まれる苦しみ、老いる苦しみ、
病気になる苦しみ、死ぬ苦しみ。

プラス、次の四つです。

◎「愛別離苦」:愛する人と別れ離れる苦しみ
◎「怨憎会苦」:怨み憎む人と会う苦しみ
◎「求不得苦」:求めるものが得られない苦しみ
◎「五蘊盛苦」:心と体を使うだけで、苦しみ

人間道、この世は苦しみだらけだぜ!と
仏教では説くんです。
それを救うのが、お地蔵さん。

…ここで不思議に思いますのが、

「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」は
辛そうだからわかるんですけれども、
(修羅道は「修羅場」の語源ともなっています)
「天道」にもお地蔵さんがいるの?ということ。

何となく「天国」のイメージで、
苦しみなど無さそうだけど…?

いやいや、これがいるんだな(という仏教の考え)。
なぜなら、

天人は空を飛ぶことができます。
基本、楽しみばかりです。人間とは違う。
…しかし、永遠では、ない。

「天人五衰」と言いましてね、
死を迎える時には体が汚れて悪臭を放ち、
楽しみが味わえなくなってしまうそうなんです。

やりたい放題だった天人が、衰えてしまう…。

「恵まれていた天人が衰えてしまう」のは、
おそらく、四苦八苦している人間と比べて
ものすごく大変なことだと思われます。
それまで楽しかった分、差がひどい。
地獄より、苦しい…。

だから、天道にもお地蔵さんがいるのです。

このように、日本では仏教の考えは、
「無意識のうちに」
日常語や昔ばなしなどに溶け込んで、
「文化」として触れることが多いもの。

さてここから、現在の文化に即して
考えてみましょう。
主観的な考えになりますこと、ご容赦ください。

「道」がいくつもあり
それをぐるぐる歩んでいく、という考えは
「キャリア」=道という考えに
どことなく似ている部分がある
ように思います。

西洋では一直線、のことが多いですが
仏教的な考えだと「ぐるぐる歩む」。
どちらが正解、というわけではなく
そういった要素がある、ということ。

時には「四苦八苦」し、時には「空を飛び」
時には欲望に駆られて「餓鬼」になり、
終始争い「修羅場」を迎えて、
「地獄」に落ち「本能のまま」歩むこともある…。

Twitterなどでの「炎上」をチラ見すれば、
まさに修羅場、欲望にまみれた餓鬼だらけ、
この世の地獄か!と思うようなこともある。

キャリアの道は、平坦ではありません。
これは「人間道」にいながら
「六道」をぐるぐると歩いているようなものかと
私には思えます。

「愛別離苦」(あいべつりく)
 愛する人と別れ離れる苦しみ
「怨憎会苦」(おんぞうえく)
 怨み憎む人と会う苦しみ
「求不得苦」(ぐふふとく)
 求めるものが得られない苦しみ
「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)
 心と体を使うだけで、苦しみ

こういう苦しみも人生にはつきもの、ですよね。

自分の好み、好きな人と会っても、
いつかは別れる、会えなくなる。
嫌いな人と「会わざるを得ない」ことも多い。
求めるものが「得られない」ことも多い。

心と体の不一致で悩む人も、多い。
「もっと若い頃は元気だったのに
体がついていかない」と、中年世代は思う。
仏教的に言えば「心と体を使うだけで
苦しみが生じる」のですから、
これまたある意味、当然のことかもしれません。

そう、生きるだけで、
キャリアを歩んでいくだけで、
「四苦八苦」する。

それが人間、というものではないでしょうか?

ただし、ここで興味深い話がありまして。

この六道の輪廻から抜け出せるのは、
「人間道」を歩んでいる人だけ、
と仏教では説いていきます。
「天道」では、ないんです。

四苦八苦している人間「だからこそ」
救われるチャンスがある!
これはかなり深い意味を含んでいる、
と思いませんか?

…なんとなくお坊さんみたいな
記事になってしまいまして、すみません。
(注:本記事は、Wikipediaで調べて書きました)

何を苦しみとして感じるのか、
どうやって救われるか、救われるとは何か、は
人によって千差万別だ、と私は考えているので、
どうぞこの先は読者の皆様自身で
お考えいただければ、と思います。

最後に、まとめます。

本記事では「かさじぞうの人数」から
「六道」にたどり着き、
人間道や四苦八苦などについて書いてみました。

ただ、お地蔵さんに笠をかぶせてあげた
老夫婦に、思わぬ贈り物が届いたように、

「ギブの精神」が巡り巡って恩恵をもたらすのは、
「SNS道」でも変わりはない
ようです。

読者の皆様は、いかがでしょうか?
困った人に「笠」をギブしていますか?

…まずは本記事に対して、
リアクションをギブしてみませんか(笑)?

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