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1860年に起こった『桜田門外の変』!
教科書にもほぼ必ず出てくる
とても知名度が高い事件、ですよね。

「井伊直弼(いいなおすけ)が
襲撃を受けたんですよね?」
「江戸幕府の大老、とても偉い人が
急に亡くなって、幕府が揺らいだ」

そんなイメージがあると思います。
私も、そうでした。
…ただ、よく考えてみますと、この事件、
あれ? そう言えば…と思うことが多い。

◆井伊直弼は反撃せずに討ち取られたのか?
◆その後のリベンジはなかったのか?
◆関係者のその後は?

本記事では、江戸幕府を揺るがした
「桜田門外の変」について書きます。

まず、基本情報。

1860年の3月。この時期には珍しく、
江戸に大雪が降りました。
登城するため、桜田門に向かう直弼。
そこを水戸浪士たち(薩摩浪士一人含む)が
襲撃してきた…
そんな事件です。

なぜ「水戸浪士」なのか。

井伊直弼、彦根藩(今の滋賀県)の藩主と、
水戸藩(今の茨城県)の元藩主、徳川斉昭は、
政治上の「敵」同士だった。

将軍の後継者の問題。
開国か攘夷かの外交。

こういう問題で対立する。
直弼は慶福(よしとみ)を推す。開国派。
斉昭は慶喜(よしのぶ)を推す。攘夷派。


…結果的に、井伊直弼が勝利します。

将軍は慶福、改名して「徳川家茂」になる。
外交は開国、日米修好通商条約を結ぶ。


加えて『戊午(ぼご)の密勅』という
大事件も起きました。
幕府を跳び越えて、水戸藩に
「直接」朝廷から命令が出された。
幕府の面目は丸つぶれ…。

激怒した直弼は、徳川斉昭に対して、
『永蟄居』という厳しい処分を下した。
「アンタ、永遠に出て来なくていいよ」。

いわゆる「安政の大獄」ですね。

…当然、水戸藩の中で
斉昭に忠義を誓っていた者は、
「直弼、討つべし!」と激怒します。
その中でも特に過激な人たちが、
藩に迷惑がかからないように
(どうしたってかかるんですけど)
脱藩して浪人になり、大老襲撃を企む。

なお、薩摩浪士が混ざっているのは、
薩摩藩主だった島津斉彬も、
井伊直弼と対立していた
影響です。
斉彬は1858年に死去。
本当は薩摩藩でも脱藩・浪人になって
襲撃を企てる志士たちがいたそうですが、
斉彬の弟、久光が止めた。

それで、ですね。
この事件、チャンバラ的な斬り合いだけが
行われたイメージがある。

いや、実際に斬り合いはあったんですが、
井伊直弼は『居合の達人』。
まともに1on1で戦ったら、
勝てる人はあまりいない。強い。
なのに、なぜ討たれたのか?

…それは「撃たれて」しまったから。

襲撃者は「訴状」を持ち、
井伊直弼の大名行列に近寄った。
油断をさせておいて、
いきなり短銃を直弼の籠に撃ち込む!

この「最初の一発」が、何と
籠の中の直弼に命中したそうなんですよ。
最強の居合術を使う暇がなかった…。

実は徳川斉昭の水戸藩では
「攘夷」を実行するため、
大砲や短銃など、当時の最新式の武器を
多く手に入れていた。

その武器係の下役人が、
この襲撃に参加していた。
ゆえに短銃、つまりピストルが
襲撃にも使われたのでは…ということ。

さらに、井伊家側にはハンデが多かった。

井伊家は60人程度、直接の襲撃者は16人。
三倍以上の人数の差があった。
しかし約半分が「臨時アルバイト」
正式な藩士ではなかった。
襲撃を受け、彼らは逃げ出した…。

…例えば、皆様がコンビニのバイトとして、
お店に銃や刀を持った人が入ってきたら?
まず「自分の命を守る行動」をしますよね。
それと同じ。

かつ、大雪です。すごく寒かった。

井伊家側は濡れないよう、刀に袋を
かぶせていた。
その袋がうまく取れない…。
数が少ない襲撃者たちに対して、
すぐには抵抗ができなかった。

井伊家では直弼と8人が討たれる。

襲撃者たちは13人が命を落とします。
3人は現場を脱出。
明治後も生きていた人すらいる。

さて、事件後。

当然、藩主を失った井伊家は
仇討ちを考えます。
『江戸時代の仇討ち』と言えば、
「赤穂浪士の討ち入り」「忠臣蔵」!
彦根藩と水戸藩は一触即発状態になる。
彦根藩VS水戸藩。江戸が火の海に…?

その内乱、内戦を止めたのは誰か?

井伊家の家老、そして直弼の主君、
幕府の将軍様、徳川家茂でした。

「暴発するな。耐え忍べ…」

将軍様にそう言われたら暴発はできない。
水戸は御三家、徳川家の一門。
井伊家は徳川家の家臣…。

ちなみに江戸時代は、
藩主が亡くなり後継ぎがいない場合、
基本「おとり潰し」になります。
しかし、さすがにこんな事態で
彦根藩をとり潰したらマズい。
藩士がみんな浪人になり、
一斉に水戸藩に襲いかかりかねない…。

井伊直弼は「生きている」ことにされます。

しばらくの間だけ。政治的配慮です。
その猶予期間中、無事、直弼の次男が
藩主の座に就き、おとり潰しは無くなる。

かつ同年1860年。事件後の半年弱後。

水戸藩の徳川斉昭が急死します。
「敵」「仇」がいなくなる…。
こうして直弼の「仇討ち」を行う機運は
弱くなっていくのでした。

…事件から約2年後。1862年。

彦根藩で関係者への処分が発表されます。
8人が直弼を守ろうとして亡くなった。
それ以外の生き残った藩士への処分。

◆重傷者:流罪
◆軽症者:切腹
◆無傷者:斬首


「…えっ? なぜ、こんな処分を…?」

主君、井伊直弼を守れなかった罪です。
襲撃者たちに勇敢に立ち向かって、
重傷を負ったものは立派、流罪。
でも、自分の命を惜しんだ者は、ダメ…。

武士の世の中とは、かくも
厳しいものなのでした。

1867年には家茂が死去し、
幕府の将軍が交代します。
徳川慶喜、最後の将軍!

彼は、徳川斉昭の実子です。

当然ながら、彦根藩は「彼に忠義を尽くす」
という姿勢をあまり見せませんでした。
戊辰戦争において、彦根藩は討幕側の
「官軍」つまり新政府側についています。


最後にまとめます。

本記事では、幕末の大事件、
『桜田門外の変』と、
その後について書きました。

◆井伊直弼は短銃でいきなり撃たれた
◆半分ぐらいがアルバイトですぐ逃げた
◆大雪のため、すぐには戦えなかった
◆内乱の危機は将軍の一言で鎮静
◆二年後、関係者が処刑される
◆彦根藩は慶喜にそむき、官軍についた

よく知られている歴史事項であっても、
調べてみますと「へえ、そうなの…!」と
驚くことがよくあります。

ちなみに、水戸市の偕楽園の近くには
「千波湖」という湖があり、
優雅に白鳥たちが泳いでいる。

その白鳥は、実は、彦根出身。

明治維新100年後の昭和43年(1968年)、
水戸市と彦根市が親善都市を結んだ際に
友好の印として贈られたそうです。

歴史の奥深い面に興味が出てきた方。
ぜひ『歴史探偵』を! NHKの番組です。
(本記事のネタは、この番組から取りました)↓

※水戸の偕楽園をつくり、
「桜田門外の変」の原因もつくった
「烈公」徳川斉昭についてはこちら↓
『烈公斉昭、偕楽園をつくる』

『「烈公」斉昭の『陰』と『陽』』

※NHKの「歴史探偵」のホームページはこちら↓

※水戸市の都市交流と
千波湖の白鳥についてはこちら↓

※水戸市の千波湖の観光案内はこちら↓

合わせてぜひどうぞ!

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