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海岸に緑色の服を着ていってはいけない…。

そんな言い伝えが
インドネシアの南の海岸にはあるそうです。
「ニャイ・ロロ・キドゥルの伝説」

◆ニャイ:成人女性への敬称
◆ロロ:高貴な女性、女王
◆キドゥル:南

直訳すれば「南の(海の)女王様」です。
彼女の好きな色は緑色。

海岸で緑色の服を見つけると、
この女王は「自分の召使い」と思ったり、
「マイカラーを使われて嫉妬」したりして、
海にひきずりこむ、と言われています。
ジャワ島の南部、インド洋の海岸で
緑色の服や水着を着て海に近づく人は
ほとんどいないのだとか…。

本記事ではこの伝説を入り口にして、
インドネシアの文化と歴史について
書いてみよう、と思います。

…まず場所の確認です。
東南アジアにはどんな国があるのか?

「インドネシア」をはじめ、
「フィリピン」「タイ」
「ベトナム」「カンボジア」「ラオス」
「シンガポール」「マレーシア」
「ミャンマー」それに
「ブルネイ」「東ティモール」があります。

合計で11の国。
リゾート地で有名な『バリ島』は
インドネシアのバリ州に属する島です。

位置関係はどうでしょう?

中国がある東アジアと
インドがある南アジアとの間、
ゆえに「東南アジア」ですよね。

半島部の国は、以下の通り。

中国の南、インドシナ半島の東岸にベトナム。
その西にラオスとカンボジア。
半島の中央にタイがある。
インド寄りの西にはミャンマー。
マレー半島の南部と、
カリマンタン(ボルネオ)島の一部は
マレーシアです。

対して、島嶼部にある国は以下の通り。

マレー半島の先端近くにシンガポール。
台湾の近く、北部の島国がフィリピン。
カリマンタン島の一部にブルネイ。
そして南部の島国がインドネシア
ただしティモール島の東部は東ティモール。

ということで、インドネシアは
東南アジアの南部の島国です。
島の数、17,000以上!
赤道直下のあたりの暑い国です。

現在の首都はジャワ島のジャカルタ
ただ2019年に首都移転が閣議決定され、
カリマンタン島の東部、
新首都ヌサンタラに移転する予定です。
人口は約2億7千万人、世界で第4位。

海が非常に身近な島国、だからこそ
ニャイ・ロロ・キドゥルの伝説も生まれた。
一説によればヒンドゥー教文化における
南の死の神「ヤマ」(中国では閻魔)が
美しい女王に変わった形
…とも言われます。

さて、ここから歴史を確認しましょう。

まず、インド商人の影響を受けて、
「仏教文化」が栄えます。
続いて「ヒンドゥー教文化」
さらにイスラム商人の影響を受けて、
「イスラム教文化」が栄えます。
もちろん中国商人たちも出入りする。

それぞれの文化を持つ王国が各地で栄えた。

象徴的な遺跡が「ボロブドゥール遺跡」です。
ジャワ島の中央部にある世界遺産!
世界最大級の仏教寺院で、800年頃に完成。
日本で言えば平安京への遷都の頃です。

…しかし現在、インドネシア内の
仏教徒はほとんどいません。
その多くがイスラム教徒。
ゆえに、この遺跡は密林に埋もれ、
忘れられ、1800年頃に発見されて、
1900年頃にようやく発掘される。
修復工事が行われたのは1980年頃でした。

さて、現在のインドネシアの地域は、
大航海時代より「オランダ」によって
支配されていきます。

1602年、日本の関ヶ原の戦いの頃、
オランダは「東インド会社」を設立。
1619年にバタヴィアという
都市をつくって東方貿易の拠点にします。
これが現在のジャカルタです。

…ただ、いきなり17,000以上の島を
一気に占領したわけではない。
最初、直接支配した土地は少しだけ。
間接統治ですね。
徐々に支配地を増やしてはいきますが、
「会社」なので、商業に重きを置いた。

オランダ本国自体は、
1648年に正式にスペインより独立。
この頃、勢いに乗っていたんです。
勢いを支えたのが東方、アジアでの貿易。

オランダは、鎖国下の日本で唯一
貿易が許された西欧の国でした。
1643年には日本近海を探索、
ヨーロッパ人としては初めて
択捉島と得撫島を「発見」しています。

…しかしこの会社も永遠には続かない。

1789年にフランス革命が勃発。
英雄ナポレオンにより、
本国オランダが1795年に占領されます。
この混乱の中、会社は解散。
海外植民地はイギリスに接収される。
つまり一時期はイギリスの植民地だった。

1814年には条約が結ばれて、
イギリスはインドに近い半島のほうを、
オランダはスマトラ島を支配することを
相互に承認しました。
いわば「縄張り」を決めた。

…ただ、またも本国が危なくなる。
1830年にオランダからベルギーが独立!
財政が苦しくなった。
そこで何が行われたか?

「栽培制度」(強制栽培制度)です。
現地の住民に指定した農作物を
強制的に栽培させ、
植民地政府が独占的に買い上げて利益を得る。
しかしこの制度も1860年頃には廃止されます。

1900年頃には民族自立の動きが出てくる。
第一次世界大戦で欧州が被害を受けると、
徐々に自立の動きが高まっていきます。

そんな時、またも本国の危機!
1940年にドイツの侵攻で降伏。
1942年に日本が
オランダ領東インドを占領します。


…まとめてみましょう。

◆1602年 オランダ東インド会社→貿易で利益
◆1795年 本国をフランスが占領→英国領に
◆1814年 英/蘭間で勢力範囲を決める
◆1830年 ベルギー独立→強制栽培制度
◆1940年 本国をドイツが占領→日本領に

その日本も1945年に降伏します。
同年に独立宣言。
以来、オランダと約4年半、独立戦争を戦い、
1950年に独立を達成するのでした。

最後にまとめます。

本記事ではインドネシアの
文化と歴史について、私なりに
かいつまんで書いてみました。

オランダは植民地政策において、
インドネシアの民衆が結束しないよう
「共通語」を作ることを禁じました。
さらに集会や、路上で3人以上が
立ち話することまで禁止したと言います。

一方で日本の軍政下では、
流刑地に捕まっていたスカルノを救出、
愚民化政策をやめさせて、
現地の人に高等教育を受けさせる。
指導者層が育成されていきました。

指導者のスカルノは、初代大統領になる。

1968年にはスハルトに政権が渡り、
ハビビ、ワヒド、メガワティ、ユドヨノ、
そして現在のウィドド大統領の下で、
首都移転が進められているところです。

…ちなみに、スカルノ初代大統領の
第三夫人はラトナ・サリ・デヴィさん。
すなわち「デヴィ夫人」ですね。

ボロブドゥールの仏教遺跡。
ニャイ・ロロ・キドゥルの伝説。
イスラム教の信者数が多い。
長いオランダによる植民地支配。
バリ島。そしてデヴィ夫人…。

インドネシアはとても多様で重層的な
文化と歴史を持つ国、なのでした。

※スカルノ初代大統領がつくった
ニャイ・ロロ・キドゥルの部屋はこちら↓

※ニャイ・ロロ・キドゥルの伝説と
バリ島ゆかりの地についてはこちら↓

※大航海時代や植民地支配の
「解釈」についてはこちら↓
『コロンブスとラス・カサスの毀誉褒貶』

※スペイン、オランダ、英仏による
日本が江戸時代の頃の覇権争いはこちら↓
『スパイス、コットン、世界帝国の覇権争い』

※インドネシアの奇祭
「レバラン」についてはこちら↓

※インドネシアや東南アジアの歴史に
興味を持たれた方は、弘末雅士さんの
『海の東南アジア史
― 港市・女性・外来者』をどうぞ↓

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