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3つの府と、約300の県の成立!

これが「廃藩置県」の結果でした。
藩と「イワナイ」、と語呂合わせで覚える
「1871年」、今から約150年ほど前のこと。
東京・大阪・京都が「府」、
それまでの藩が「県」となりました。
(注:「府」は10か所ほどありましたが、
3か所だけ留めて、他は「県」にした)

…この廃藩置県により、それまでは
各地方の「藩」「藩主」が
地方の政治を行っていましたが、
それからは中央・東京から
「府・県知事(県令)」が任命され、
いわゆる近代的な
「中央集権国家」が生まれていきます。

…現在は「47都道府県」ですが、
そんなもんじゃなかった。

廃藩置県をしたばかりの頃は
たくさんあった。
1871年だけで一気に47都道府県に
変わったわけじゃないんです。
ちょっとずつ、合併したり
分離したりして、整理されていった。

現在の47都道府県に近い形が
できあがったのは、1888年頃のこと。
…つまり「20年弱」も、ああでもない
こうでもないと試行錯誤をして、
揉めて、妥結して、考えに考えて、
ようやくまとまっていったのです。

本記事では、日本の地方のかたち、
「枠組み」について書いていきます。

300ほどもあった藩が「県」になり、
それが50くらいにまとまった。
…ということは、逆に言えば
『250ほどの県が無くなった』ということ。

「平成の大合併」、つまり
最近の「市町村合併」においては
約3200の市町村が約1700になりましたよね。
これは『約1500の市町村が無くなった』

…市町村が無くなると、
市長村「長」も、市町村「議会」も、
その分、無くなっていきます。
つまり、それまで力を持っていた人の
ポストが無くなり、力を失うことになる。

それと同じです。

廃藩置県の推移によって
「250ほどの県が無くなった」。
ということは、
それまで力を持っていた人の
ポストが無くなった
ということ。
だから、揉めやすいんです。紛糾する。
実際に、かなり揉めました。

1871年の「廃藩置県」の時には、
西郷隆盛が新政府軍の力を背景にして
有無を言わせずに「断行」した。
そうしないとできないレベルの問題!

1871年以降の整理されていく過程でも、
「あんまり揉めるようなら
中央政府が黙っていませんよ?」と
地方に圧力をかけていたことは
容易に想像がつきます。

何しろ、1871年時点で力を持っていた
西郷隆盛自身が、1877年に
西南戦争で政府軍に敗れて死んでいる。
明治政府には逆らえません。
ましてや、県の偉い人、県令は
「中央政府から派遣された人」です。
中央に反抗できるわけがない。
反抗したら、交代させられますから。

こうして「中央集権国家」が
ガッチリとできていく
、その中で
『250ほどの県が無くなった』んです。

…昔の藩、つまり、県が無くなると、
当然、その藩の「歴史」であったり
「地名」であったり、
そういうものが薄れていきます。
「平成の大合併」でも、
学校や地名が無くなったりして、
「町の文化」が薄れていった。

まとめればまとめるほど、
地方や地域の色、独自の文化が薄れていく。

そういった側面があるんです。

「正しい日本語」つまり「標準語」が
全国各地にできた学校において
「国語教師」によって教えられていき、
「方言」が薄まっていきました。
中央集権の鍵は、言語の統一でもある。

ただ、明治~敗戦まで、日本は
日本列島の外にも拡大していましたから、
現在よりも外の枠は広かった。
それが敗戦によって、日本列島の枠内に
再び戻っていくかたちになります。

憲法が改められ、中央集権に替わって
「地方自治」が盛り込まれることになる。
それぞれの地方の「偉い人」たちを
中央政府ではなくてその地方の人たちが
選挙で選ぶことになりました。

ただ、都道府県の枠組みは、そのまま。

沖縄返還は1972年ですから、以来、
約50年以上も都道府県自体の枠組みは
変わることなく現在まで
進んできているのです。

「…さすがに、約50年前とは
人口分布や、都市の繁栄・衰退などが
変わってきているのだから、
枠組み自体を変えた方がいいのでは?」

そんな流れもあり「都道府県の中で」
再編の動きがありましたよね。
それが、1999年から2010年頃に
行われた「平成の大合併」です。
「市町村合併特例新法」がつくられて、
「アメ」(財政上の特典)で促された。

先述した通り、
『約1500の市町村が無くなった』。

ただし、47都道府県の枠組みは
「そのまま」据え置きです。
廃藩置県が落ち着いたのが1888年頃。
それから、なんと約140年近くも
都道府県の大枠は変わってない…。

いや、変えよう、という動きは
ちょこちょことありました。
いわゆる「道州制」の議論です。

古くは1927年(昭和2年)、
田中義一内閣の時の「州庁設置案」で、
北海道以外の日本全国を「6州」に
分ける案が出されていました。
どうやって分けたのかは、以下の通り。

◆仙台州
青森県、岩手県、宮城県、
福島県、秋田県、山形県

◆東京州
茨城県、栃木県、群馬県、
埼玉県、千葉県、東京府、神奈川県、
山梨県、長野県、新潟県

◆名古屋州
静岡県、愛知県、岐阜県、
三重県、富山県、石川県、福井県

◆大阪州
滋賀県、京都府、大阪府、
兵庫県、奈良県、和歌山県、
徳島県、香川県、高知県

◆広島州
鳥取県、島根県、岡山県、
広島県、山口県、愛媛県

◆福岡州
福岡県、佐賀県、長崎県、大分県、
宮崎県、熊本県、鹿児島県、沖縄県

この案では四国は
分割されていたんですね。
ただ、この分割案は、
田中義一内閣総辞職とともに廃案となり、
実行はされませんでした。

戦後も、道州制の議論においては
様々な分割案が出されて
浮かんでは消え、消えては浮かび、と
繰り返されてきましたが、
いまだ現実的なものにはなっていません。
(2018年には、自由民主党内にあった
『道州制推進本部』が廃止されています)

役職のポストが少なくなる…。
「州都」が大きな力を持ってしまう…。
外れた地域がさびれるのではないか…。
そもそも適切な線引きができるのか…。


「道州制」いわば「廃県置州」は、
様々な思惑が絡み合って
政治的・経済的な綱引きが起こり、

かつ、地方自治と中央集権との
「国のかたち」「憲法問題」などの
せめぎあいをも引き起こす問題だけに、
非常に難しくて大きな問題なのです。

最後に、まとめます。

本記事では日本の地方のかたち、
「枠組み」について書いてました。

もし読者の皆様が「州」を置くとしたら、
どのような分け方をしてみますか?

※『都道府県』の呼び名↓

※『地方の風景の変化 ~四つの転換を踏まえて~』↓

※『茨城県の本拠地の変遷』↓

合わせてぜひどうぞ!

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