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「三蔵法師」と言えば夏目雅子さん…!
と思い浮かぶ人は
年がばれてしまいますけれど。

「三蔵」とは、仏教における
経蔵・律蔵・論蔵のことです。

◆経蔵…お釈迦様が説いた教え(お「経」)
◆律蔵…仏教教団内の決まり(戒「律」)
◆論蔵…教えの解釈(経を元に「論」じたもの)

この三つの「蔵」を修めた高僧のことを
「三蔵法師」と呼びます。

なので別に一人の人を指す言葉ではないのです。

しかし、日本で「三蔵法師」と言えば、
「孫悟空の師匠のお坊さん」というイメージ。

孫悟空の頭についた輪っかを、お経を読んで
ぎりぎり締めつけるお師匠さん、という感じ。

三蔵、とは名前ではない。

…では、このお師匠さん、「三蔵法師」の
本当の名前はなんなのか?

「玄奘(げんじょう)」と言います。

実在した人物で、俗名は陳褘(ちんい)。
昔の中国、隋~唐のあたりの人。
602年頃に生まれて、664年頃に死んだ。

日本で言えば、607年に遣隋使、
630年に遣唐使が始まっていまして、
645年頃に「大化の改新」ですから、
そのあたりの人、です。

本記事では、
彼(夏目雅子さんが演じましたが
女性ではない)の「旅路」について
書いてみたいと思います。

唐の時代のお坊さん、三蔵法師こと玄奘は、
仏教を学んでいくにつれて、次第に
仏教の本場、インドに行きたい!
原典の経典を手に入れたい!
と、強く願うようになりました。

「インドから中国へと伝わってきた過程で、
色んな人が色んな解釈をしてきたから、
もとの教えとは違ってきているんじゃないか?」

そう考えたんです。
…確かに「伝言ゲーム」をしていると、
もとの指示からとんでもなく違うものに
なってしまいがちなものですよね。

こうして玄奘は中国からインドへ、
西の地域、つまり「西域」へと
旅をしよう!と計画するのですが、

当時(629年)はまだ唐王朝ができたばかり。
国境も国情も安定していなかったため、
出国の許可がおりません。

「ならば、勝手に行くまで!」

何と玄奘、国の決まりを破って、
「密出国」するんです。
意外とワイルドでアクティブ。

長安(西安)から、一路、西へ!

ゴビ砂漠を命からがら突破して、
「高昌」というオアシス都市国家に入ります。
現在の地名で言えば、トルファン
新疆ウイグル自治区のあたり。
北には天山山脈、南にタクラマカン砂漠、
俗にいう「天山南路」です。

ここで玄奘、手厚いおもてなしを受ける。

中国の偉いお坊様がやってきた、ということで
「国認定の高僧」として留め置こうとされます。
…ついには部屋に閉じ込められます。

「ここにずっといてください!」

そう言われますが、
頑固な彼は、首を縦に振らない。
高昌の国王は彼のインドへの熱意を知って断念し、
これから訪れる国の王様に向けて
「この人を助けてあげてくださいね!」という
手紙を持たせたそうです。

いやあ、玄奘三蔵、とても
魅力的な人物だったんでしょうね…。
(というか、軟禁するなよ)

こうして玄奘は、
「トルファン(高昌)」から無事に出発、
西にある「クチャ(亀慈)」へ。そこから
天山南路から途中で天山北路に切り替えて、
「ベデル峠」という峠を越えようとします。

ベデル峠、標高4,284メートル!
富士山よりも、高いんです。

夏でも雪が溶けず、極寒・強風の難所…。
その自然の驚異は、玄奘の目にはまるで
妖怪変化のように映ったのではないでしょうか。

やっとこさ峠を越えた彼の目の前には
「イシク・クル湖」が広がりました。
琵琶湖の九倍もの面積、広い広い湖!

現在のキルギス共和国のあたり。
「中央アジアの真珠」と呼ばれる湖に、
玄奘もほっと一息、だったことでしょう。
(実際にこの湖はキルギスのリゾート地)

ここからいわゆる「シルクロード」の
諸都市を巡っていきます。
タシケント、ブハラ、バーミヤン…
(中華料理レストランではありません)。

さらにガンダーラ、カシミールと進み、
「インド人殺し」とも呼ばれた
「ヒンドゥークシュ山脈」を越えて、
ついに目的のインドへと到着したのでした。

このあたりの脳内ミュージックは、やはり
ゴダイゴの『ガンダーラ』がしっくりきます。

さて、玄奘三蔵、インドのマガダ国、
最終目的地である仏教の聖地とも言うべき
「ナーランダー僧院」にたどり着きました。
今で言えば仏教系大学の大学院。
ここで十年間、みっちり勉強・研究して、
中国に仏教の経典を持ち帰っていく。

その量、何と、馬で22頭分…!

ただ途中でインダス川で船が転覆し、
経典が一部無くなった分、
書写して蘇らせる
、というトラブルもあった。
(というか、全部覚えているのか…)

唐の長安に戻ってきたのは、
日本で言えば大化の改新の頃、
645年のことでした。
17年ぶりです。皇帝も、変わっています。

「密出国だって? でもお前、
ちゃんと勉強してきたんだろ?
いいよ、いいよ! 問題ナッシング!」

という感じで、罪も許されました。

それどころか玄奘の才能に目を付けた皇帝は
「おまえ、還俗して、俺の片腕になれ!」
とまで言われます(高昌での軟禁と似ている)。

が、そこは頑固一徹、玄奘三蔵。

「私は仏教を広めるのが仕事だ!」とばかりに
「だが断る」と言い放ち、
余生のすべてを、仏教の普及に費やすのでした。

最後に、まとめていきます。

この玄奘の旅の様子は、
『大唐西域記』という本になります。
ここから『西遊記』が生まれました。
そう、孫悟空、猪八戒、沙悟浄の物語。
さらに日本で『ドラゴンボール』に…。

そう考えると「孫悟空」たちの活躍は
元を正せば、三蔵法師こと玄奘が
生み出したものかもしれません。

また、遣唐使の一員として日本からやってきた
道昭というお坊さんは、
玄奘に教えを受けた、と言われています。

この道昭の弟子が、行基です。
そう、奈良の大仏づくりに活躍した行基。
となると「奈良の大仏」も元を正せば、
玄奘が大きく関わっている、とも言えます。

玄奘の、中国~インド往復の旅路。
摩訶不思議なアドベンチャー。
強い想いに彩られた軌跡、無二のキャリア。

それが今の日本にも『ドラゴンボール』や
『奈良の大仏』として残り、
多くの人の旅路にも影響を与えている…。

その悠久の歴史を考えた時、

私はちょっとだけ
元気をわけてもらった気になり、
「オラ、ワクワクすっど!」
と思ってしまうのです。

※本記事は以前に書いた記事を
リライトしたものです↓
『玄奘三蔵、摩訶不思議アドベンチャー』

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