見出し画像

1、信長の野望と革新

「信長の野望」というゲームをご存知でしょうか?

織田信長という実在した戦国大名をモチーフにした歴史シミュレーションゲームです。1作目が出たのは、1983年。今から約36年も前のこと。2017年には15作目が発売され、ロングベストセラーシリーズとなっています↓。

織田信長は、歴史的な人物の中でも特に有名で、特に人気がある人物です。ゲームの主人公はもとより、漫画やアニメにもたくさん取り上げられています。「織田信長 漫画」で検索すると、出るわ出るわ…↓。

ちなみにいま私が注目している織田信長の漫画は、甲斐谷忍さんの「新・信長公記 -ノブナガくんと私-」です↓。

戦国大名・武将たちのクローンがヤンキー高校に生まれ変わったという設定で、「ライアー・ゲーム」みたいな頭脳戦・心理戦が展開されています。

それはさておき、400年前以上前の人物である織田信長が、なぜこんなに現代日本で取り上げられるのか?

一つは「実行力」でしょうか。戦国時代という、死と隣り合わせの時代に、自分の能力と野望で突き進んで、革新的な政策を次々と実施して、強敵をなぎ倒して、天下布武を目指した。自分の行動でその生きざまを示す。その在り方に憧れる。令和時代という「乱世」で、自分もそうなりたいと思う。

もう一つは「強烈なキャラ」でしょうか。とにかく織田信長はキャラが立っている。もちろんフィクションの部分も多々ありますが、強烈な、いわゆる日本人とはかけ離れた性格を持っている。「織田信長外国人説」などが唱えられるのも、今に始まったことではありません。

今回は、それらをひっくるめた、織田信長の「革新性」について考えてみたいと思います。

2、本当に革新?

「織田信長 革新」というワードで検索すると、こんな本が出てきました↓。

日本史史料研究会編の「信長研究の最前線」です。副題は、ここまでわかった「革新者」の実像

実像ですから、虚像がある。つまり、ゲームや漫画、アニメなどで「作られてきた」虚像とは異なる、真の織田信長の実像に迫ろうとした本です。

これが「現在の信長研究の到達点」! 信長は、天皇・朝廷との共存を望んでいた! /「楽市楽座」は信長のオリジナル政策ではなかった! 

という商品の説明書きにもあるように、織田信長は決して「破壊者」「革新者」とは言い切れない部分がある、という説が展開されています。詳しくは実際に本書をお読み頂きたいのですが、いかに私たちが虚像の織田信長に踊らされているかがよくわかります。

例えば、信長の勢力拡大のキーマンとなった「将軍 足利義昭」との関係について。これまでのイメージだと足利義昭は、信長に利用されるだけされて、利用できなくなったらポイ捨てされたマリオネット、ただの傀儡政権、というイメージが強いのですが、必ずしもそうではない、という説が出てきます(太字引用者)↓。

「将軍義昭は、信長の『傀儡』ではなく、その権力は信長の軍事力などによる権力と相互補完の関係にあり、そのような体制について『二重政権』であると規定された。また、久野(雅司)氏は将軍義昭・幕府について、畿内を直接支配し、また権限の及ぶ範囲である『畿内における最大の政治権力であった』と述べた。このように明確に将軍義昭について、信長の『傀儡』とする従来の見方を否定されたのである。これは画期的な指摘であったといえる」。
義昭の幕府はそれ以前の戦国時代の将軍・幕府と同様に機能しており、けっして信長の『傀儡』と理解されるようなものではなかったことが判明してきている。当然、信長の存在を無視することはできないが、義昭と信長の関係は、けっして特別なものではなく、戦国時代を通じて見られる将軍・幕府と諸大名との権力構造の延長線上にあった」。

自分の実力がつくまでは、相互補完の関係、二重政権として尊重していたんですね。実力がついてきてから、追い出した。でも命までは取っていない。足利義昭は、中国地方の毛利氏に保護されて、そこで信長に対抗します。イメージ的な信長の残虐な感じでは、追い出さずに命を取っていたと考えられがちでしょうけど、そうではないのですね。

このような「あくまでイメージです」の部分を取り除いて、織田信長を考えていく必要がある。

そうすると浮かび上がるのは、革新的であるというよりも「合理的」、情熱的であるというよりも「理知的」、冷静に自分の実力を見極めて、計算して、かなわない相手には下手に出る、進まない改革は少しずつ進める、まるで成長しつつある中小企業の社長の経営戦略のような、織田信長の姿です。

どうしても「桶狭間の戦い」「比叡山焼き討ち」「本能寺の変」など、派手な事件にばかり目がいきがちですが、この「合理的」で「理知的」な織田信長にこそ、目を向けるべきだと思います。

3、多国籍企業オダコーポレーション

ではどうやって織田信長は、それまでの日本人らしからぬ、「合理的」で「理知的」な視点を身につけたのか?

よく言われるのは、尾張(愛知県)という商業のさかんな地域の出身だから、ということです。名古屋のあたりは、関東と関西の中間地点。まさに交通の要衝。商売の取引もさかんで、米ではなく銭(お金)でものを考える機会も多かった。当然、お金は数字がものを言いますから、その地方の殿様である信長が、数字でものを考えることは当然かもしれません。

いかに自分たちに利益があるか。長期的に見て儲かるのか。利益が出るとわかれば、実行する。利益が少ないとわかれば、実行しない。

例えば、尾張の北の「美濃攻め」について。桶狭間の戦いが1560年。美濃の本拠地「稲葉山城」を攻め取ったのが1567年。実は7年もかかっています。いや、信長の父親の織田信秀の時代から、美濃とは戦っていますから、何十年もかかってようやく手に入れた、と言ってもいいかもしれません↓。

そんなに時間をかけなくても、東を攻めるとか西を攻めるとか、そのほうが良かったんじゃないか、という考えもありますが、そこは後付けだから考えられることで、信長の中では「まず美濃をとる」というのは外せない目標だったのですね。上記の記事にあるように、この美濃、稲葉山城を取り、岐阜城と改名してから、信長の快進撃が始まります。まず実力をつける。ヒット商品を生み出す。派手なように見えて、実は着実な信長です。

その後は、浅井氏との同盟、上洛、信長包囲網との戦い、などと進んでいきますが、おそらくここで、信長の「合理的」で「理知的」な視点を手に入れるために欠かせない出会いがあったと思われます。

それは「キリスト教の宣教師たち」との出会いです。

周知されているように、織田信長は「南蛮風」を好み、「鉄砲(火縄銃)」をうまく使って、強敵を倒していきます。しかし、そのような物質的なものだけでなく、精神的なもの、ものの考え方においても、大きな発想を得たのではないか。

それをもたらしたのがキリスト教の宣教師たち、すなわち外国人です。彼らは、ヨーロッパからはるばる日本まで旅してきました。日本的な考えとはかけ離れたものを持っています。信長は、彼らの話を好んで聞いたと言われています。キリスト教を保護し、南蛮寺を建ててあげます。

なぜ織田信長はキリスト教を保護したのか↓。

このような記事もありました。やはりまずは「合理的」な判断が働いた。キリスト教は自分の目標である「天下布武」に役立つ、と思ったのでしょうね。それと同時に、キリスト教の宣教師たちのものの考え方、いわゆる西洋的な考え方をも、自分の中に取り込んでいき、自分の目標に役立てていこうと考えたのではないか。

ここで誤解していただきたくないのは、信長はキリスト教の信者になったわけではない、ということです。あくまで保護しているだけ。

後には「摠見寺(そうけんじ)」というお寺を建てて、何と自分自身を神に見立てています。キリスト教の宣教師たちが言う「神」の概念を、自分の中に取り込んで、自分自身の政治に利用したんですね。

当然、この神を恐れぬ所業を、宣教師たちは批判しています↓。

…彼を支配していた傲慢さと尊大さは非常なもので、そのため、この不幸にして哀れな人物は、途方もない狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼の家臣らが明言していたように、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に値する者は誰もいないと言うに至った。(…中略) 彼は、それらすべてが造物主の力強き御手から授けられた偉大な恩恵と賜物であると認めて謙虚になるどころか、いよいよ傲慢となり、自力を過信し、その乱行と尊大さのゆえに破滅するという極限に達したのである。

松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史3 第55章』には、このように述べられています。保護された当初は信長をべた褒めしていた宣教師たちも、信長の「道具」として使われていたことに気付いたのでしょう。もちろん信長は批判などどこ吹く風、確信犯だと思います。

あと有名な話としては、アフリカ出身の黒人を自分の家来にした、というエピソードもあります。宣教師たちが連れてきた人物に、「弥助」という名前を与えて召し抱えたのです。「Yasuke」というタイトルで、いまハリウッドでの映画化も進んでいます↓。

このあたりは、信長の凄いところ、才能があると思えば出身は関係なし、人を役に立つかどうかで見る、というところですね。のちの豊臣秀吉も、とても貧しい身分から取り立てています。ただ、その「役に立つかどうかで見る」の部分が行き過ぎて、部下たちの反発を買い、ついには本能寺の変で殺される、という末路をたどるのですが…。

それはともかく、宣教師たちや黒人侍が隠然たる実力・影響力を持っていた織田陣営は、出身は関係なしの、多国籍企業オダコーポレションと言ってもいいかもしれません。おそらく本能寺の変がなかったら、海外にも進出していたでしょうから。

4、外からの視点はしがらみを壊す

ここから、何か教訓のようなものは得られないでしょうか。

新しい発想、合理的な考え、イノベーションを生み出すのは、いかに旧来の考えから離れるか、が鍵です。今まで当然と思われていた考えにとらわれていては、新しい発想など生まれっこないからです。

先日、note記事で「水に流す日本」を書きました。

ここでは「水に流す」という考えが、実はかなり日本的な考え方で、外国では理解されにくい、ということを紹介しました。

その前には、この記事も書きました↓。

「U理論」という考え方を紹介し、

①「再現する」ダウンローディング(Downloading)
・過去の経験によって培われた枠組みを再現する。
「新鮮な眼で見る」スィーイング(Seeing)
・判断を保留し、現実を新鮮な眼で見る。
③「感じ取る」センシング(Sensing)
・感じ取る。「開かれた心」によって全体性から置かれた状況を見る。

物事を「新鮮な眼で見る」という方法があることを書いています。

織田信長は、「お金」という観点から、それまで「お米」で動いてきた経済とは異なる政策を発想し、「キリスト教の宣教師たちの西洋的な考え」という観点から、それまでにない新鮮な眼で物事を考え、門閥主義ではなく「能力主義」を取り入れて、歴史を動かしてきたのではないでしょうか。

このように、外につながる視点を取り入れて、それまでの考え方を絶対的なものから相対的なものにすることが、新しい発想への鍵です。

ちなみに、織田信長には、「水に流す」ことをしなかったエピソードがあります。佐久間信盛や林秀貞(林通勝)たちへの「リストラ」の話です↓。

なんと、自分自身が家督を継いだ頃の話(何十年も前)を持ち出して因縁をつけ、そのあと「あまり役に立たなかった」と断罪して、古くからの重臣を追い出しているのです。今なら「日産のカルロス・ゴーンのリストラか!」とでも言いたくなるようなエピソードです。いかにも合理主義的、能力主義的な信長らしい行動です。ふつうなら「水に流す」ところを、何十年も根に持っていたのでしょうか。

このように、日本人離れしたところのある信長、強烈にキャラ立ちしている信長だからこそ、日本人は彼の生きざまに惹かれ、ゲームや漫画、アニメの主人公にしているのかもしれません。

5、外からの視点にあえて跳び込む

いかがでしたでしょうか。この記事では、織田信長を例に挙げて、その「革新性」、いや「合理的なものの考え方」について考えてみました。外からの視点を入れる。これは、旧来のしがらみを打破するのに必要です。バンジージャンプのように勇気を出して跳び込んでこそ、見える風景はあります。

なお、以前にnoteで「外からの視点を入れる」をテーマに記事を書いてみました。よろしければご覧ください↓。

本能のままに組織に巣くう害虫(あくまで信長視点)を、リストラにより駆除しようとした信長が、反撃に遭って「本能寺」で倒されるというのは、いささか歴史の皮肉ですが…。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

よろしければサポートいただけますと、とても嬉しいです。クリエイター活動のために使わせていただきます!