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成田空港と西船橋の中間地点。
千葉県にある印旛沼(いんばぬま)の近くに
「臼井城」(うすいじょう)の跡があります。

印旛沼沿いの台地の上にあり
沼が一望できる眺めの良い城跡…。
今では「臼井城址公園」となり、
のんびりとした空気が流れている。

…しかし、ですね。
この城でとんでもないことが起こった。

1566年、戦国時代の真っただ中、
この城は「軍神」に包囲されてしまい、
まさに落城の危機に遭う
のです。

「臼井城の戦い」です。

軍神、上杉謙信の軍勢、約15,000人。
対する籠城する軍勢は、約2,000人…!

どう考えても勝ち目はない。
何しろ相手は「軍神」こと上杉謙信。
かの武田信玄と互角に戦った
戦国の申し子、越後の名将!

この大ピンチに、なんと臼井城、
落城せずに勝利をつかむんです。
上杉軍は惨敗して撤退!
その勝利の裏には、一人の
「謎の軍師」がいたと言われています。


白井胤治。しらいたねはる。
出家して浄三(じょうさん/じょうみ)と
名乗ったため「白井浄三入道」とも。

彼はどうやって大軍の上杉勢の
猛攻をしのぎ、勝ちを制したのか?

本記事では「謎の軍師」白井浄三と
彼の仲間たちの奮戦を書きます。

…謎の軍師、という呼び名は
私が中二病っぽく
勝手につけているわけではなく、
本当にこの人、謎なんです。
生没年不詳。

一説によると、この地を治めていた
「千葉氏」に仕えていた、と言われる。
また一説では、近畿の三好三人衆の一人、
三好長逸(ながやす)に仕えていたとも。

ただ、この人が、上杉軍が攻めてきた時に
臼井城にいた、と言われている。
上杉謙信の軍勢が攻めてきた背景を
確認しておきましょう。

上杉、とは後に名乗った名前。
謙信の元の名字は「長尾」さん。
越後を統一し、武名を上げていた。

そこに関東から「上杉」さんが亡命してくる。
関東では「北条」さんたちが
勢力を伸ばしている。
上杉家の名前を継いで、倒してくれ、と。

謙信(この時は出家前なので景虎)は快諾!

「上杉」という家は、
関東地方の管領を務めていた名門でした。
要するに上杉「関東管領」を継いだ謙信と、
「関東地方の覇者」となりつつある後北条氏。

「上杉VS北条の戦い」が起こっていたんです。

…ただ、生涯の好敵手、武田信玄が
甲斐・信濃にいます。
ずっと関東に行くわけにもいかない。

上杉謙信は忙しいんです。敵が多い。
「川中島」で武田軍と戦う。
「小田原城」で北条軍と戦う。
24時間タタカエマスカ状態。
まさに軍神!ですね。

そんな状況を踏まえて起こったのが
1566年の「臼井城の戦い」です。

この前年、1565年には
京都の二条御所にて将軍足利義輝が
三好三人衆や松永久秀たちに
攻め滅ぼされるという大事件が起こった。

上杉謙信は、将軍の足利義輝と
深い親交を結んでいました。
「三好や松永、絶対倒す、全員〇す!」と
神仏に誓った、と言われる。
その三好に縁があった白井浄三が
相手だったのも、何かの運命か。

謙信は、関東管領家を継いでいたため、
まず関東地方を押さえようと出兵。
筑波山のふもと、
北条方の小田城をあっさり攻略。

この当時、謙信は房総半島の端っこ、
里見家と同盟を結んでいたのですが、
この里見氏が北条に攻められていた。
彼らを助けるべく
下総、今の千葉県にまで
その軍勢を進めていきます。

印旛沼の近く、臼井城!

ここを守るは、北条氏に味方する
原胤貞(はらたねさだ)
そしてこの守将の下に、
謎の軍師、白井浄三がいた。

敵は約15,000人。守るは約2,000人…。

当然、士気は下がります。
「敵、多過ぎじゃん。負けるぞこれ」
下手をすると、城の中から
裏切者が出てもおかしくない情勢…。

城主の原胤貞から軍勢を任された浄三は、
まず兵の士気を上げることを考えた。

「大軍と言っても、恐れることはない。
敵陣に立ち上っている気は、
いずれの殺気にして囚老に消える。
一方、味方に立ち上っている気は、
みな律儀で王相に消えている。
味方の勝利、間違いなし!」

…言っている意味はよくわかりませんが、
この戦国時代の「軍師」の役割は
「気」を読んだり
「吉日」を占ったりすることが多かった。
やる気を出させたり、決断を促したり、
タイミングを読んだりするのが主なお仕事。

有名な武田信玄の軍師、山本勘助も
このような「軍師」だったと言われます。

浄三は、すでに近畿のほうで
軍配を任されていたこともある「名軍師」。
その彼が言うんだ、間違いない!
城の士気は、おおいに上がります。

対する上杉軍。

「なんだ、こんな小さな城。
攻めに攻めて、とっとと落とせ!」

そこで浄三、どうしたか?
何と城門を全開、フルオープン。
一気に城外の敵に襲い掛かったんです!

先陣が道を開く。二陣が道をつくる。
三つ目の陣が敵の本陣まで突入!
「三陣の波状攻撃」によって、
上杉軍はあともう少しで
本陣まで落とされるところでした。
特に、松田康郷という豪傑は
「赤鬼」と呼ばれて敵から恐れられた。

その翌日。

勢いに乗って攻めてくるだろうと読んだ
謙信ですが、今度は城から攻めてこない…。

「…本日は『千悔日』といって、
先に行動を起こすと負ける日です。
浄三入道はそれを見越して
攻めてこないのではないでしょうか?」

謙信の家臣はそう進言しました。
しかし謙信、そこは軍神。勇気がある。
敵の読みを逆手に取り、
先鋒に城への総攻撃を命じます。

勇んで城に迫る上杉軍。しかし!

なんと城壁が崩れ、一気に
多数の兵が下敷きになってしまう。

浄三の策略か、あるいは自然のいたずらか?
この状況に驚いた謙信は
味方に退却を命じましたが、
このチャンスを逃すまい、と
絶妙のタイミングで
城門フルオープン、城からの総攻撃!

…こうして上杉軍は、
圧倒的な戦力を持ちながら、
臼井城の攻略に失敗、惨敗してしまう。

なお、この話は謙信の伝記には
いっさい書かれておりません。
軍神の名に傷がつくのを恐れたのか?
それとも実際には謙信はいなかったのか?

真の詳細は不明です。

ともあれ、上杉軍はこの敗戦をきっかけに、
徐々に関東から手を引きます。
各地の武士たちが上杉から離反する。

逆に北条氏が「関東の覇者」になり、
豊臣秀吉が攻めてくるまで
関東地方の主導権を握り続けました。

浄三たちは、関東の歴史を変えたのです。

最後にまとめます。
本記事では知られざる「臼井城の戦い」と
謎の軍師「白井浄三入道」を紹介しました。

なお、その後の浄三の行方は、不明。
歴史の闇へと消えていきました。
「その後の消息、杳として知れない」…。

読者の皆様の地域でも、
よく調べてみると、とんでもない
人物や歴史のエピソードが
人知れず眠っているかもしれません。


ぜひ、検索してみてください!

※日本史上の有名な
「智将・軍師」はこちらを↓

※「臼井城の戦い」に興味のある方は、
佐倉市がカッコイイ動画を
つくっておりますので、
よろしければご覧くださいませ↓

※白井浄三を主人公にした
蓑輪諒さんの小説、
『最低の軍師』はこちらから↓

※「臼井城の戦い」の記事はこちら↓

※「謎の天才軍師・白井浄三」については
こちらの記事も↓

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