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広い世界を垣間見ることによって
価値観が変わる、ということはあります。
思い込んでいたことを
「実際の現場」に行って感じることによって
誤解だったのではないか、と考え直す。

板垣退助、という人にも
そのようなことがありました。
本記事では彼の「洋行」と、
その影響を書きます。

板垣退助。いたがきたいすけ。

1837年~1919年。
江戸幕末~明治・大正の時代の人。
土佐藩、高知県の出身。
「自由民権運動」の人として知られる。
「自由党」という政党の創設者。


明治時代に議会政治を日本に導入するため、
「国会をつくれ!」と政府に迫る。
彼の影響もあり、
1889年「イチハヤクつくる」帝国憲法、
翌1890年には、帝国議会ができる…。

日本史の教科書に必ず出てくる
重要人物、と言ってもいい。

…ただ彼のエピソードでよく出るのが、
「板垣死すとも自由は死せず!」
という言葉。かっこいい。全国に広まった。

これは、1882年(明治15年)四月のこと。
岐阜で遊説中に暴漢に襲われ、出血しながら
「吾死スルトモ自由ハ死セン!」と言って、
「板垣死すとも自由は死せず!」
という表現で広まったと言われています。

この年は彼にとって大きな転換点。46歳頃。
キャリアチェンジのターニングポイント!
十一月に盟友である後藤象二郎とともに
ヨーロッパに外遊するのです。

…でもこれ、ふつうに考えますと、
殺されかけた同じ年に旅行している。
当時のことですから、
飛行機で、びゅんと飛ぶわけにはいかない。
船で行く。長い時間をかけて。
体調は、大丈夫だったんでしょうか?

また、政治活動としても大事な時期です。
いよいよ国会をひらくための土台作り。
重大な局面。
そんな時に、リーダーの板垣退助が、
日本を離れてもいいものなのでしょうか?


しかし、彼はヨーロッパに行く。
そこには、真相はさておき、内外には
色々な思惑があった、と言われています。

まず、彼自身の内面から考えてみます。

彼は、自由民権運動を始めた。
それは本の知識だけで
「フランス、自由・平等の国、素晴らしい」
と思って、実施しているわけです。
仲間たちにもそのように伝えている。

しかし、今のようにネットもSNSも
ある時代ではありませんから、
情報はとても限られています。
本当にそうなのだろうか?という疑念は
常に彼の中にあった、と思われる。

ヨーロッパ、フランスに行きたかった。

明治時代は「文明開化」の時代です。
留学、外遊した人が
とても、もてはやされる時代でした。

そこに、お誘いがあったんです。
「あなたもフランスに実際に行ってみて、
自由・平等の国を味わってみてはいかが?」

確かにそう言われれば
「目指すべき国」なのですから、
行ってみようかという気になると思います。

次に、政敵たちの思惑。

彼のライバル、言わば「敵」は、
明治政府の中心、伊藤博文です。

政府と板垣はバチバチにやり合っています。
そんな中で、伊藤博文は
盟友の井上馨を通して板垣と後藤に
「ヨーロッパ、フランス、行ってみませんか?
お金? 大丈夫。三井が出資します…」
と誘うんですよ。

でもこれって、明らかに、
内部分裂を促してますよね?

リーダーがいなくなれば、
にらみを利かせる人がいなくなる。
その間に弾圧することがやりやすくなる…。

明治維新直後の時もそうでした。
薩摩藩出身の大久保利通は、
「岩倉使節団」として外遊に出ます。
留守番は同じく薩摩藩出身、西郷隆盛。

帰ってきた後、どうなったか?
大久保と西郷は外交路線で対立して、
ついには「西南戦争」を起こしました。
薩摩藩出身者の内部分裂、と言ってもいい。

…伊藤博文はこの時に、
大久保とともに外遊しています。
経緯を、当事者として目の当たりにしている。
「外遊をすれば、価値観が変わる。
しない者と価値観の相違が生じる」
そういったことを、身をもって知っている。

それを踏まえた上で、
板垣たちに外遊をもちかけたのではないか?

どうする、板垣退助?

板垣、この誘いを受けて、洋行しました。
メリット、デメリット、色々考えて、
しかしやはりこのタイミングで
(しかもお金を出してくれるので)
外遊しておくことは大事だ!と
決断したのでしょう。

1882年11月~1883年6月。
主にフランスに行き、
政治家のジョルジュ・クレマンソー
文豪のビクトル・ユーゴー
学者のハーバート・スペンサーなど、
そうそうたるメンバーに会ってくる。

特に、スペンサーに会いたかった。

なぜなら、彼の本が日本で訳されて、
自由民権運動の支柱になっていたから。

彼の『社会静学』(訳本『社会平権論』)
という本を、民権の教科書と言っていたほど。

…ところがですね、彼との会談は
とんでもない結果になった。
板垣、ケンカ上等、のところがあるので
スペンサーに対しても、全くひるまない。
質問・疑問を、そのままぶっつけます。

板垣「あなたたちが語る『自由』とは、
ヨーロッパの人たち、白人のあなたたちに
都合の良い自由ではないのでしょうか?


スペンサー「ようやく封建時代が終わった
日本が何を言っているのか!
我々と肩を並べて語ること自体が傲慢だ

板垣「…えっ?」

スペンサー「君の言うことは、空理空論

反論しようとした板垣を制して、
彼は席を立ってしまったそうです。

…さて、板垣は帰国して、報告会を開く。

仲間たちはわくわくしていたでしょうね。
本場のフランス、さぞや凄かっただろう!
どんな素晴らしいお土産話が聞けるのか!

板垣は、彼らに対して、こう報告しました。

「フランスは、非常に野蛮な国である。
表向きは自由や平等を言いながら、
裏では植民地を持っている。
まるで貴族気取りだ。
あれは、白人に都合のいい自由と平等だよ。
賛成できないな。
ヨーロッパがすごい!と崇拝するのは、
間違いである。
みんなも気を付けよう」

…うーん、正直者、と言いますか、
裏表がない、と言いますか、
確かに、そう思ったんでしょうけれども。

そもそも、政府に「懐柔」されて
洋行した板垣には、党内からの
批判も大きかった。
三井財閥のお金、というのもあり。

のちに自由党は
過激派が起こした加波山事件などの
「激化事件」の影響もあり分裂、
解党していくことになるのです…。

憲法や国会は、どちらかと言えば
政府主導でつくられることになります。
(後に板垣は伊藤内閣や
大隈内閣の大臣になりましたが…)

最後に、まとめます。

本記事では「板垣退助の洋行」と、
その影響について書いてみました。
誤解を招くといけませんので、
あくまで、明治時代のお話である、
お断りしておきます。

外からの理念だけを知ったつもりになり、
崇め奉り、行動してしまい、
現実を見た時に、我に返る。
見ていない人との断絶が広がっていく…。

こういうことは、現実でもよくあります。
読者の皆様の組織では、いかがでしょうか?

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