過程こそが知りたい ~フィニッシュワークと校正と~
1、しつこくなると「質が濃く」なる
前田デザイン室さんの記事「鬼フィードバック第2弾」、「【誰も教えてくれない!】デザインの輝きを生む“フィニッシュワーク” 」という記事を拝読しました↓。
これは、必読。読むべし。そう思います。
デザインの試行錯誤の話。しかし、デザイナーさんだけでなく、何かモノを作る人であれば、タメになる部分が必ずあると思います。次の一言が、すべてを表しているように思います↓。
しつこくなると、「質が濃く」なる
(前田さんのブログ『NASU-note』より)
制作物の質を濃くするには、「しつこく」試行錯誤すること。
質を追求する前田さん、それに応える筆者の斎藤ナミ(パン子)さん、そのやり取りがこのような記事として余すところなく表現されたこと、すべてに感謝です。なぜならば、デザインの「質を濃く」するためにはどうするべきか、実務者なら誰もが知りたいこと、しかし一番(恥ずかしいからか)ブラックボックスとなっていることが、赤裸々に書かれているからです。しかも無料公開記事。気前が良すぎませんか…。
私はこのようなツイートをしました↓。
そう、私たちは、完成品を見ることはあっても、その過程を見ることは稀。どのような道筋をたどって、そのデザインになったのか。いや、デザインの枠に留まらなければ、文章、書籍、動画、絵画、クリエイトされたもの全般に対して、果たしてどのような「フィードバック」「ブラッシュアップ」「フィニッシュワーク」、つまり「試行錯誤」があったのか、その過程こそが知りたいのです。そこにクリエイトのヒントが隠されているから。
今回は、おびただしい数の制作物の裏にある、おびただしい数の「廃案」についての話です。
2、活字狂想曲
倉阪鬼一郎(くらさかきいちろう)さんという、作家さんがいます。
ウィキペディアより略歴を引用すると、このような方です↓。
1987年短篇集『地底の鰐、天上の蛇』(幻想文学出版会)でデビュー。1995年、短編「赤い羽根の秘密」で日本ホラー小説大賞最終候補作に。第二短編集『怪奇十三夜』(幻想文学出版会)を経て、1997年『百鬼譚の夜』(出版芸術社)で再デビュー。
初期は「日本唯一の怪奇小説家」を名乗っていたが、再デビュー後は、モダン・ホラー的な作品、本格ミステリとホラーとの融合作品、奇抜な趣向を偏執的に凝らしたバカミス(バカミステリー)など、速筆を保ちつつ作風を広げる。現在の自称は「特殊小説家」。また、海外怪奇小説の翻訳も多数手掛けているほか、俳人として句集も出している。
近年は時代小説にも進出し、いわゆる「文庫書き下ろし時代小説」作家の1人に数えられる。
1987年にデビューされた倉阪さんですが、デビュー後の作品群は実際に興味があれば読んで頂くとして、今回紹介したいのはこの作品↓。
「活字狂想曲」です。この本が書かれた背景を、再びウィキペディアの略歴から引用しましょう。倉阪さんのデビュー前の話です(太字引用者)↓。
大学事務員として就職したもののフリーライターを志望して退職する。しかし生計が成り立たず印刷会社に入社、文字校正係として11年間勤務の後、退職。校正者としては有能であったが、会社では浮いた存在であり、無意味な集団活動等には参加せず(末期には、病死した直属上司の通夜への顔出しさえ断っている)、また、顧客からの理不尽な要求に逆上することも多かった。この11年間の経験は、のちに『活字狂想曲』として出版されている。これは後日の回想ではなく、勤務と平行してひそかに同人誌に連載していたものに注記を加えたものだが、一方的な会社批判に終始せず、異分子としての自己をも、かなり客観的に描いている。
「印刷会社に入社、文字校正係として11年間勤務」。
この「校正」というお仕事は、まさに「フィードバック」「ブラッシュアップ」「フィニッシュワーク」、要するに「試行錯誤」の嵐です。
そう言えば最近では、石原さとみさんが「校閲」の仕事をする人を演じたドラマもありましたね、こちら↓。
「校正」と「校閲」の仕事の違いは、こちらをご参照ください↓。
ざっくり簡単に言うと、「校正=誤字脱字・体裁チェック」であるのに対し、「校閲=内容そのものが正しいか適切かのチェック」というところです(ドラマではやりすぎの感がありますが)。
石原さとみさんが演じると「地味にスゴイ!」という華やかな感じですが、倉阪さんの「活字狂想曲」では、ひたすら暗い感じになります。
しかし、倉阪さんの独特のブラックユーモアが冴えわたり、読み物としては抱腹絶倒、これほど地味な仕事をこれほど面白く書けるのかと、凄みさえ感じます。仕事についてのみならず、巻末の浅羽通明さんの解説にもあるように、「貴種流離譚」の「レジスタンス戦記」としても読めます。ネタバレになるので内容自体は書けませんが、ラストのクライシスは「やっちゃった感」がありつつも、「こうなるよな」という納得のスカッとした結末が待っています。ぜひお読みください。
3、無意識のフィルター
さて、校正と校閲について、少し別の角度から。
note記事をお読みの方は、ご自身でも文章を書く機会がおありかと思いますが、いかに文章を書くか、以上に「いかに文章を直すか」は大事なことだと思います。note記事であればすぐに修正もできますが、印刷物などですと、刷った後からの修正はしにくい、というか原則できない。
私たちは、完成された文章を読んでいます。しかしその裏には、膨大な数の「廃案」があります。内容の取捨選択、誤字脱字チェック、大人の事情で消された文章、それらの関門を越えて、文章は人の目にさらされます。よく「行間を読む」と言いますが、せっかく文章を読むのであれば、書かれなかったものにも目を向けていきたい。
「いやいや、私は思うところ、あるがままに書いてますよ。別に含むところ、隠しているところなどありませんよ」
と思われる方もいるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか?
私たちは文章を書くときに、無意識にフィルターをかけます。
この無意識というのが厄介で、本当は自由であるはずの文章表現に、ブレーキ(時にはアクセル?)をかけているのです。…「言葉狩り」などの大層な話ではありません。もう少し根本的な、イメージ的なものです。
例えば、「りんご」について、文章を書くとします↓。
このりんごは甘くて美味しい。
何のひねりもなく書くとこうですかね。
食感に着目すればこうです↓。
このりんごはシャリッとした歯ごたえ、瑞々しい果汁があふれて、甘くて美味しい。
味をもう少し深く書けばこうですか↓。
このりんごは酸味の中にもほのかな甘みがあり、すっきりとした後味で美味しい。
私はいま、あまり考えずに(無意識に)このように書きました。
頭の中のイメージは、「青森産のりんご」「赤くて丸い」「皮をむいて切って、つまようじを刺して食べる」、いわゆる普通に考えられるであろう「食用のりんご」です。こんなイメージ↓。
では、この記事を読んでみてください↓。
…どうでしょう、りんごのイメージが変化しませんでしたか?
この記事では、スティーブ・ジョブズ、アイザック・ニュートン、ウィリアム・テル、リンゴ・スターという、4人の有名人が出てきます。
この記事を読んで私は、「アップル社のイラスト、有名なかじられたりんご」「万有引力に引き寄せられるりんご」「矢に射抜かれたりんご」「りんご、すったーと、すりおろしりんごのCMに出てオヤジギャグを言うリンゴスター」というイメージが頭の中に生まれました。
何が言いたいのかというと、「りんご=食用=食べる」と、私は無意識にイメージして文章を書きましたが、同じ「りんご」という言葉を聞いても、その人の脳内の知識やイメージによっては、「コンピュータ」「物理」「弓矢」「ビートルズ」などのように、必ずしも食用のりんごが浮かぶとは限らない、ということです。人によっては「椎名林檎」を思い浮かべるかも。キリスト教に詳しい方なら、真っ先に「アダムとイブの禁断の実」のエピソードが思い浮かぶかもしれません。
このように、どこまでイメージを広げられるかは、脳内に蓄えられた知識と、それをつなぐ発想力にかかっています。今は便利な世の中で、検索ワードに「りんご」と入力すれば、先ほどの「りんごと四人の男」のような記事が出てきます。もし、先にこの記事を読んでいれば、私は必ずしも「食用」に偏らない文章を思い浮かべたでしょう。
どの切り口から書くか。一つ文章を書くとき、その背後では書かれなかった無数の文章がため息をついています。「…俺を選んでくれよ」。
そのため息を聞き逃さずに、もう一度取捨選択するか。りんごと言えばリンゴスターもいるな、と思い出せるか。それとも瞬発のきらめきに委ねて、後ろは振り向かないか。
それは、文章を書く目的、誰に何を伝えるのかという使命、各個人のスタイル、文章の「締め切り」までの時間、などによるのでしょうけど、倉阪さんのように「校正」に長く従事していた方だと、書きながら「校正」できるのかな…、石原さとみさん演じるキャラならば、書きながら「校閲」できるのだろうか…と思うわけです。
無意識のフィルターを意識できるか、自由奔放に書くときにはどこまでそのフィルターを「意識して外せる」か、制限があるときにはその制限の中でどこまで「しつこく質を濃く」できるか。
広げ方と厳密さ。その能力を高めるのが、「校正」であり「校閲」であるように思います。その点において、冒頭に挙げた「デザインの鬼フィードバック」と、「校正・校閲」は、デザインと文章という違いはあれど、共通する部分があると思うのです。
4、書かれなかった歴史とブラッシュアップ
いかがでしたでしょうか?
最後に締めとして、「書かれなかった歴史」を想像させてくれる、1つの作品を紹介しましょう。中島敦の「文字禍」です↓。
歴史の記述において、何を書いて何を書いてないかの話は、手前味噌ながらこちらの記事もお読みいただくと嬉しいです↓。
なお、制作物に関する「ブラッシュアップ」には、このようなサービスもありますので、ご参照まで↓。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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