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令和元年に生まれた神社。
その名も「ほしいも神社」!↓

(ここから引用)

『明治以来那珂の大地では
ほしいも作りが盛んに進められてきました。

先人の努力により、現在は
日本一の生産県として、
日本全国にほしいもを出荷しています。

年号も令和となり、我々一同
日本一のほしいも作りに向けて、
県や市、観光協会などと、
様々な催しを企画し、
内外各方面よりたくさんの人に
当地のほしいもづくりを
知っていただこうと活動しております。

その一環として、令和元年
新たに堀出神社の境内に、
黄金の「ほしいも神社」を建立いたしました。

ほしいも造りを通して
我々生産者や町の人間が受けた
神の恵みや社会に対する恩を、
神社の創建を通してあらわすとともに、

幾久しく当地のほしいもづくりを
続けられるように祈念してするための
新しい神社です。

また、ご参拝の皆様には、
当地に参られご参詣していただくことによって、
「ほしいもの」は総て手に入る
「ほしいも神社」の御神徳が得られますよう、
心からご祈念申し上げます。』

(引用終わり)

「ほしいも」と「ほしいもの」をかけた
新しい神社!
茨城県のひたちなか市にあります。

本記事では「ほしいも」について。

ほしいもの原料はサツマイモですよね。
「サツマ」イモ、ですから
「薩摩」つまり鹿児島県が、源流…?

しかしもっと歴史と地理の上流をたどれば、
中央アメリカのメキシコからグアテマラ
あたりが原産地と言われています。
コロンブスの「新大陸発見」により、
ヨーロッパへと広がりますが、
熱帯産のため栽培は広がりませんでした。

広がったのは、熱帯の東南アジア。

スペインは「ヌエバ・エスパーニャ」
(ニュースペイン)という
メキシコ~フィリピンを中心とする
植民地を形成していましたので…↓

そこから中国、琉球、薩摩へと伝わり
「薩摩の芋」として栽培開始!
17世紀初め、江戸時代の最初の頃です。

八代将軍の徳川吉宗は、
「青木昆陽」に命じて薩摩藩から
種芋を取り寄せ、栽培させます。
青木昆陽は『甘藷記』という本を書きます。
普及に尽力し「甘藷先生」とも呼ばれます。

しかし、当時はSNSもChatGPTもない。
広がるところには広がっていますが、
知らないところは、知らない。


さて、1766年のことです。
薩摩藩の船が遠州灘(静岡県の沖)で難波、
御前崎沖で座礁する事故が起きました。
御前崎の大沢権右衛門という人が、
住民を率いてこれを救った。
乗員24名が、助かりました。

「お礼に金20両を差し上げます!」
「いえいえ、難破船を助けるのは
村の習わしでございますから…」

この権右衛門の言葉に感動した薩摩藩は、
謝礼金の代わりに
積み荷からサツマイモ三本を贈ったそうです。

…三本(たったの?)。

いえいえ、これはすごいことだった。

実はこの当時、サツマイモは
薩摩藩の重要な特産品。
薩摩藩においての栽培方法は門外不出だった。
薩摩藩と言えば、江戸幕府にとって仮想敵。
公儀隠密が潜り込んでも
なかなか戻れなかった秘密厳守の藩!

その薩摩藩が、権右衛門には
秘密の栽培方法を伝授してくれたのです。
これにより静岡(遠江国)の海岸地域では、
どんどんサツマイモ栽培が広まっていきました。

原料が普及すれば、加工も進むものです。

1824年、サツマイモを煮てから包丁で薄く切り、
干して乾燥させる加工法が編み出されます。
「煮切り干し法」と言います。
もともと遠江のあたりは冬には
「遠州のからっ風」と呼ばれる強風が吹く。
干すには、最適。
「切り干し大根」ならぬ
「切り干し芋」生産が盛んになっていきます。

さて、この遠江の「切り干し芋」が
どうやって茨城のひたちなかの辺りに
広まっていったのでしょうか?

…また船の「難破事件」がきっかけでした。

明治時代に茨城県から来た船が
静岡県沖で難破。乗員らが救助されます。
救助された一人、照沼勘太郎は、
この「干し芋」の存在を知ったのです。

後に、故郷の前渡村(現ひたちなか市)に
戻った勘太郎はあの味を再現するべく没頭、
1895年には製造に成功したそうです。

この土台の上で、さらに1908年、
静岡県から詳しい製法が伝わってきた。

一説には煎餅屋の
「湯浅藤七」という人物が導入し、
「宮崎利七」が静岡からの技術支援を受けて、
那珂湊の水産干物加工設備を流用して
企業化したとも。

また異説としては、
「小池誠司(吉兵衛)」・大内地山兄弟が、
茨城県知事の森正隆に献策して、
静岡からの技術者2名の派遣を受けて
製造を始めたとも…。

この「干し芋」を組織的に
普及させたのが「大和田熊太郎」です。
前渡村の村長兼農会長だった熊太郎は、
財政が厳しかった村を立て直すべく
静岡から直接講師を招き、講習会を開催!
1920年「前渡村甘藷蒸切干製造組合」設立!

さらに「サツマイモの神様」と呼ばれた
「白土松吉」という人も現れます。
農学校を卒業した松吉は
役所に勤め、農家の指導技手としても大活躍。
時には「サツマイモ畑で寝る」ほど
研究に没頭し、栽培の普及に尽力しました。

…こうして、茨城県のひたちなかのあたりは
「ほしいも」生産地として
全国的にも有名になっていくのです。
(知らなかった方はぜひご検索を)

◆「宮崎利七」:干し芋製造普及
◆「湯浅藤七」:干し芋製造普及
◆「小池吉兵衛」:干し芋製造普及
◆「大和田熊太郎」:干し芋組合を設立
◆「白土松吉」:人呼んでサツマイモの神様

この五人は、冒頭に書いた
「ほしいも神社」にて、
「ほしいもの神様」として祀られています。

最後に、まとめましょう。

本記事では「ほしいも」の歴史を追いました。
様々な人の手、つながりを経て
普及していった、ほしいも。
メキシコから東南アジア、
薩摩からの静岡、そして茨城へ。


…ついには宇宙へも普及するかもしれない

コレステロールが含まれず、
整腸作用のある食物繊維は豊富。
ビタミンB1やビタミンC、
カリウムにも富んでいる、ほしいも!
今では「NASAの宇宙食」としても
研究、検討されているそうなのです。

読者の皆様も、今日のおやつに
ほしいも、いかがですか?
皆様の「ほしいもの」は、何ですか?

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