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ひゃくまんとうだらに、と読みます。
文字通り、百万基もつくられました。

「陀羅尼」とは、ダーラニーという
サンスクリット語を中国の漢字で
あらわしたものです。
「暗唱されるべき仏教の呪文」

この陀羅尼を紙に「印刷」して、
木製の三重小塔の中に入れてあります。
高さは(標準的なもので)約21センチ。
巻物入りのミニチュアの塔!

これを百万基つくった。百万ですよ?
十万基ずつ、十のお寺に渡した。
大安寺・元興寺・興福寺・薬師寺・東大寺・
西大寺・法隆寺・弘福寺・四天王寺・崇福寺。

「…なんでまた、そんなことを?
いつの時代のことですか?」

遠い昔、奈良時代のお話です。

770年(宝亀元年)に収めた、と
『続日本紀』という歴史書に書かれている。
764年の「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」で
亡くなった人の菩提を弔い、
鎮護国家を祈るためにつくらせたそうです。

つくらせたのは「称徳天皇」という人。
(〇〇天皇というのは「おくりな」であり
亡くなった後に呼ばれる呼び名なのですが、
本記事ではこの表記で書きます)

この称徳天皇、聖武天皇の娘です。

聖武天皇と言えば『奈良の大仏』
「なるほど、仏教を篤く信じていた
聖武天皇の娘なら、こういうことを
やっても違和感はない」
…そう思いましたか?

実はこのあたりの奈良時代の歴史は、
賛否両論、人間ドラマも入り混じり、
すごいストーリーなのです。

本記事では、この称徳天皇について
取捨選択をして書いてみたい、と思います。

718年に生まれて、770年に亡くなった。
約52年の生涯。女性です。
二回、天皇の位に就いた人。
一度目は「孝謙天皇」。在位749~758年。
二度目は「称徳天皇」。在位764~770年。

史上六人目の女性天皇でした。
長い歴史の中で、女性の天皇は
たった8人しかいませんが、その一人。

女性天皇で有名なのは、
聖徳太子(厩戸皇子)の頃の
「推古天皇」かもしれませんね。
初めて、女性の身で天皇に即位した人。
また、天武天皇の妻の「持統天皇」
小倉百人一首にその名を残しています。

ただし、この称徳天皇の後、
江戸時代の1629年に「明正天皇」が
即位するまで、女性天皇は生まれない…。

なぜ?

実はこの称徳天皇、後世からの賛否両論が
とても激しい人、なのです。

ゆえに、この人以降、
女性を天皇に即位させることを
天皇家が避けてきたようなふしがあります。

特に「否定」する側の論拠としては、
「道鏡」という僧侶を溺愛し、
自分の後継者として即位させようとした
という事件があったから、と言われます。
勝手に自分の「愛人」を天皇の位に
つけようとするなんて言語道断!
何とケシカラン人だ!という評価。

この事件は「宇佐八幡宮神託事件」または
「道鏡事件」として知られております。

称徳天皇は、生涯独身です。
後継者問題が発生します。

769年、彼女が51歳頃の時、道鏡の弟が
「道鏡を皇位につかせたら
天下は泰平である」と神託を受ける。
そこで、和気清麻呂、という人を
宇佐八幡宮に確認しに行かせたら…。

「わが国は開闢このかた、
君臣のこと定まれり。
臣をもて君とする、いまだこれあらず。
天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。
無道の人はよろしく早く掃除すべし」

(超訳)

「日本はさ、国が始まった頃から
家臣が天皇になるなんて、無いんだよね。
やっぱさ、皇族からきちんと選ばないと!
よくわからん人は、掃除してポイですよ」

そんな神託を受けた、と
清麻呂が報告する。

…これを聞いた称徳天皇、激怒!
和気清麻呂(わけのきよまろ)の名前を
別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と
無理やり改名させ、左遷した
、と言います。

ただ、さすがに間違いと言われて、
道鏡を即位させることもできにくい。
称徳天皇は家臣たちに対し、
「道鏡は即位させない」と宣言します。
「自分が改めて決めます」と言う。

その翌年、770年、突然の崩御…。

群臣は評議の結果、白壁王という
皇族のひとりを天皇に即位させて、
今度は道鏡が左遷になります。
うん、なんか、きな臭い政局の香りが…。

そんなことがあったんですよ。だから、
「称徳天皇、ひどい天皇だ!」
「道鏡、天下最大の悪僧だ!」
「和気清麻呂、忠臣の鑑だ!」
そんな評価が、つけられやすい。

…ただですね、歴史、特に正史というものは
勝った側、残った側が書くものです。
「そんなに称徳天皇、ひどかったのか?」
という疑問もまた残る。

これは私の勝手な疑問ではなく、
すでに江戸時代には、
本居宣長(もとおりのりなが)という
国学者が、この事件の流れについて
「本当にそうだったの?」と疑っており、

現在では『続日本紀』の記述自体が
白壁王の即位を「正当化」するために
かなり脚色しているのではないか…

という説もあります。

ちなみに、後を継いだ白壁王は
「光仁天皇」として即位しました。
平安京の「桓武天皇」のお父さん。
このあたりからも、
「奈良時代、最悪」「平安時代、最高」
としようとする価値観が働いていた…かも。
時代の変わり目には、旧時代の人は
悪く言われがちなものですから。


この称徳天皇は、当時の百年ほど前に
中国(当時の先進国)で「女帝」として
君臨した「則天武后(武則天)」
ロールモデルにしていたと言われています。
624~705年の人。

例えば、称徳天皇は
生前には「天皇」ではなく
「皇帝」と名乗っている。
「宝字称徳孝謙皇帝」という号を使う。

また、元号を「四字」にしています。
「天平勝宝」「天平宝字」
「天平神護」「神護景雲」
など。
これも、則天武后スタイル。
本場はこうですよ、と遣唐使の人たちが
教えたんでしょうか?

ひいては「道鏡」に位を譲ろうとした。
…これは、皇族が後を継ぐ、という
「日本の天皇」流ではなく、
「徳のある人」が後を継ぐ、という
「中国の皇帝」流の後の継がせ方
です。

そう、称徳天皇は天皇でありながら、
「中国の皇帝風」の政治を志した。
だから「消された」のでは…?
そういう解釈もできる、のです。
(もちろん、一つの解釈に過ぎませんが)

最後に、まとめます。

本記事では賛否両論のある称徳天皇について
取捨選択して書いてみました。

なお、彼女の墓は「称徳天皇陵」として
奈良市の「佐紀高塚古墳」がそれだと
宮内省によって定められているのですが、

これは「前方後円墳」
四世紀くらいにつくられたもの。
…全く時代が合わない。
すなわち、称徳天皇は
「お墓がどこかすら明確にはわからない」。

彼女の死後、都は平安京へと変わっていき、
藤原氏の天下が続くことになります。
称徳天皇と道鏡は、藤原氏の力を削ぐために
「荘園」を増やすことを止めようとした、
とも言われています。

とすると、彼女に悪評をつけて、
歴史から排除しようとした犯人は…?

約五十二年の生涯。
彼女は百万塔陀羅尼に、
どんな想いを込めたのでしょう?

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