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大阪が日本の首都になる可能性がありました。
明治維新の頃。明治元年のこと。

大阪遷都論を唱えたのは、
明治の元勲、大久保利通
これに対して「江戸を首都とすべきだ!」と
反論・提案した男がいます。前島密
まえじまひそか。「日本の郵便の父」。

大久保は、大阪に遷都するつもり満々でした。
しかしこの前島の提案を聞き、
東京への遷都に傾いた。
前島は大阪のマイナス面を書き連ね、
大阪遷都に反対したのです。

「道路が狭い」「港も狭い」
「開拓が必要な蝦夷地から遠い」…など。

大久保、それもそうか、と思い直す。
大阪遷都から、東京「奠都」
(てんと)と表現を変えて、
あくまで「東の京です!」として移動させる。
こうして、江戸は「東京」と改称され、
首都として今でも続いているのです。

本記事では、日本史の「本拠地」「首都」に
注目して、記事を書いてみましょう。

西暦の紀元後の約二千年だけ切り取っても
さまざまな「移り変わり」がありました。
本格的な「国づくり」を始めたのは、
聖徳太子(厩戸皇子)のあたり。
これがだいたい西暦600年頃。

その西の「朝廷」に対して、
東に「幕府」をつくったのは源頼朝
だいたい1200年くらいのことですよね。

その後、紆余曲折はありましたが、
最終的に徳川家康が「江戸幕府」を
つくったのは1600年頃のお話。

その幕府が1853年のペリー来航で揺らぎ、
「大政奉還」「明治維新」で無くなる。
戦前/戦後で国の仕組みが変わったのは
1945年、約75年前くらい前のこと。

…紀元後、約2000年だけの話だと、

◆西暦1年 ~600年頃 ≪約600年≫ 約3割
◆600年頃 ~1200年頃≪約600年≫ 約3割
◆1200年頃~1600年頃≪約400年≫ 約2割
◆1600年頃~1850年頃≪約250年≫ 約1.25割
◆1850年頃~1945年頃≪約100年≫ 約0.5割
◆1945年頃~2023年時≪約75年≫ 約0.25割

このように、ざっくりと分けられる。

◆西暦1年 ~600年頃 ≪約600年≫

日本の「邪馬台国」にいた『卑弥呼』
三国志の時代の中国から
金印をもらったりする。
この時代、中国に近い「西」のほうが
文化も取り入れやすく「先進的」
でした。
「稲作」なども、南西のほうから広がった。

大陸から色々な技術や人が渡ってきます。
「三国志」という呼び名でもわかるように
中国大陸は「分裂」「戦乱」の時期。

そんな中、「むら」「まち」「くに」
できていき、各地に古墳ができる。
統一が進み、豪族たちもまとまる、
「大王」を中心とする政権ができていきます。

◆600年頃 ~1200年頃≪約600年≫

聖徳太子が「遣隋使」で最新技術を取り入れ、
「仏教」を軸にした国づくりを始める。
彼の死後もその路線は受け継がれ、
「大化の改新」「律令制度」「公地公民」…。

この頃の本拠地(都)はよく変わりますが
飛鳥とか奈良とか、基本、西ですよね。
「ナクヨうぐいす」の794年からは
平安京つまり「京都」が本拠地。

ただ「公地公民」は、形骸化していく。

「荘園」という「家の庭園(ガーデン)」
貴族たちがたくさん持つようになったから。
ここは、基本無税です。勝手に入れば不法侵入。
だって「自分の家の庭」なんですから。

「家庭菜園」でできた作物は自分のもの…。
貴族は京にいて、地方に行かないことも多い。
(『遥任(ようにん)』と言います)

こうして「私腹を肥やす贅沢三昧」な
京都の貴族たちに対し、
「実際に住んでる俺の土地を認めろ!」と
地方の武士たちは不満を高まらせていく。

その高まりの中、鎌倉幕府ができる。

◆1200年頃~1600年頃≪約400年≫

鎌倉は関東です。承久の乱で西に勝つ。
全国の武士たちの土地を認める。
その代わりに、幕府の味方をさせます。
「御恩と奉公」ですね。

ここで興味深いのは、西の京都には
「朝廷」が残ったまま、ということ。
「征夷大将軍」も天皇から授けられる位。
「朝廷と幕府」「西と東の併存体制」!
他国ではあまり見られないスタイルです。

しかしじきに、足利家が西に向かい、
京都を本拠地に幕府を作っていきます。
元の場所に戻った。東から西へ。
ただそのうち「応仁の乱」が起こる。
各地への統制が効かなくなる。
「地方分立」「戦国時代」の始まりです。

それを統一したのが、おなじみの二人。
尾張・岐阜・安土城と
東から西に進んできた織田信長と、
「大坂城」をつくった豊臣秀吉

◆1600年頃~1850年頃≪約250年≫

彼らの後を継いで天下をまとめた
徳川家康は「東」に本拠地を定めました。
もし、関ヶ原で家康が負けていたら、
大坂が新都になっていたかもしれない。

こののち、約250年ほどの長きにわたり、
東の「江戸幕府」の政治が行われます。
西の京都の朝廷は残る。
幕府の監視下、法の縛りの下で…。

◆1850年頃~1945年頃≪約100年≫

その縛られた西の朝廷が息を吹き返したのが
幕末の動乱、明治維新。
…ただ、西に本拠地が戻ることはなかった。

天皇が「東に」引っ越し。
「東京」が爆誕します。
東の京!
政府と朝廷が、同じ土地に集まるんです。

明治政府は「蝦夷地」と「琉球」を
「北海道」と「沖縄」として組み込みました。
廃藩置県で『中央集権』も行う。

その後は海外に積極的に出ていき、
台湾、樺太、朝鮮半島、ひいては
中国東北部の満州まで勢力下におきます。
戦時中には、中国大陸、東南アジア、
太平洋諸島にまで拡大していく…。

その中心は「帝都・東京」だった。

◆1945年頃~2023年時≪約75年≫

それらの勢力範囲が一気にしぼんだのが、
戦争後、「戦後」の日本ですよね。
本拠地は、東京。
『地方自治』にはなりますが
地方交付税交付金頼みの自治体も多い。

…さて、ここまで概観を見てきましたが、
あることに気が付きませんか?

「江戸(東京)」がガチで使われたのは
徳川家康が江戸に来て以来。
2000年のうち約400年程度。約2割。

そう、世界史的に言えば、東京は
「新しい都」。発展途上と言ってもいい。
ローマとか、パリとかに比べて。

しかし今は「東京一極集中」と言われ、
東京と地方との差は歴然です。
それだけ見れば太古の昔から
東京が栄えていたと錯覚しがち。しかし、
実は2000年の約2割にしか過ぎない…。

最後にまとめます。

本記事では「本拠地」に着目し、
日本史の概観を見てきました。

いま読者の皆様は東京エリア、
その他の地域、もしかしたら海外、
色々な所にいらっしゃると思います。

それぞれの地域には
それぞれの歴史と地理がある…。

もちろん、各自、個々人も
それぞれなりの歴史(個人の経歴)と
地理(住居の変遷)を持っている。

全体の歴史と地理の変遷を踏まえつつ、
極私的な歴史と地理を認識して、活かす。

東京中心史観以外の目で、地理を捉える。

そんなことが大事だな、と思いつつ、
私は「実用地歴」を模索しております。

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