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この記事では、2020年9月26日(この記事を書いた日の昨日)に、Twitterで5連投したツイートの内容を紹介し、補足しつつ、現在の「差異の時代」についての考察を書き残しておきたい。

1 テーマ提示
2 政治における歴史の事例
3 多様性に対する現在の事例
4 反対事例(同調圧力の少ない時代)
5 ビジネスにおける事例
6 まとめ(『半沢直樹』を例に挙げて)

こういう流れである。

1、赤信号みんなで渡れば怖くない

まず、90年間を30年ずつ分けてテーマを提示した。

①1931〜1960年 総力戦の時代
②1961〜1990年 一億総中流の時代
③1991〜2020年 差異の時代

このように仮定すると、①②は「みんな同じ」。同調圧力が、強い。それを端的に表すのが、ツービート(ビートたけしさんがいたお笑いコンビ)のネタ「赤信号みんなで渡れば怖くない」である。確か1980年代だったか。福田赳夫元首相曰く「昭和元禄」とも言われた、安定成長の時代。

それに対してバブル崩壊・冷戦崩壊後の③は「みんな違う」時代になる。「何が正しいのかが不明瞭」になってきた。

2、人生いろいろ、会社もいろいろ

次に、同調圧力について、歴史の事例を挙げて補足した。

和を以って貴しとなす→十七条の憲法(聖徳太子)
五人組→江戸時代の相互監視・相互扶助の制度
隣組→昭和戦中期の相互監視・相互扶助の制度

これだけだと過去の事例のみになってしまうので、最近の事例も。

長い間「ペールオレンジ色」が
「肌色」と呼ばれてきたのも
証左のひとつ。

はだいろ、といえばペールオレンジっぽい色、という思い込み。日本人=黄色人種、という無意識の思い込み。

これが現在では崩れていく。いや、実際には、「みんな実は違うよね」と言われればみんなわかっていたものが、表に出てスタンダードな意識になっていく。それを端的に表現したのが、小泉純一郎元首相の「人生いろいろ、会社もいろいろ」ではないだろうか。

3、みんなちがって、みんないい?

3つ目のツイートでは、その差異をお互いに認められているか、いや、その境地までにはまだ至っていないでしょう、ということを示した。

「みんなちがって、みんないい」は、女流詩人金子みすゞの有名な詩からの引用だが、だいぶ前に詠まれたこの詩の境地に、みんなが達しているとは言えないだろう。みんなちがうのは、わかる。しかし、みんないい、とは言えないという気持ちだ。

①みんな同じがいい
②みんなちがってるけど不公平は許せない
③みんなちがったら、みんな悪い

もちろん政治的な立場によっていろいろな考えがあるだろうが、このような意識があるのではないか。

同調圧力の根は、深い。「総力戦の時代」「一億総中流の時代」をともに過ごしてきたから、当たり前と言えば当たり前。もっと言えば「五人組」、さらに言えば「十七条の憲法」から、「和」を大事に生きてきた島国なのだ。異文化コミュニケーションが得意か不得意かというと、間違いなく不得意だと思われる。そんな30年かそこらで、多様性をただちに肯定する気持ちにはなれないだろう。

ただ補足すると、江戸時代は各藩で政治が行われた「地方分権」の時代でもあったから、もし明治新政府がもっと「各地の文化を活かす」ような政治を行っていたら、ここまでの同調圧力は生じなかったかもしれない。しかし、欧米列強に追い付け追い越せの当時の状況が、それを許さなかった。方言はおとしめられ、共通語としての「正しい日本語」が、新しい学校教育で強制された。そうでもしないと、できたてほやほやの「国民国家」は、早々に瓦解していたであろう。

4、ちがわないと生きていけなかった時代もある

では、日本史上で「みんなちがって、みんないい」の時代はなかったのだろうか、という反対の事例を探ったのが、このツイートである。

まず考えられるのが「戦国時代」。究極の「地方分権」、分国法や家法でそれぞれの地域が治められた。中国地方なら毛利家、甲斐と信濃なら武田家、といった具合だ。他の大名と同じことをしていたら、生き残れない。現に、強烈に個性と違いを押し出してきた織田信長の前に、いわゆる守旧派の大名たちは次々と敗れた。後を継いだ豊臣秀吉は、各地の違いを認めつつも、ゆるやかにだが力強く天下を統一していく。

次に考えられるのが「明治維新」。幕末になると、各藩が究極の選択を迫られた。佐幕か、尊王(倒幕)か。ふつうに考えて、260年以上も続いた幕府支配にたてつこうというのは、いわば狂人の所業である。その「狂」の精神をモットーにした吉田松陰一派が長州藩の実権を握り、薩摩藩と手を結ぶことによって「回天」を実現化した。各藩の守旧派から見れば、回天どころから仰天の事態である。水戸藩などでは、有名な天狗党に代表される革新派と守旧派が、血で血を洗う政争を行っている。「今まで通り」の佐幕が、正義から悪へと塗り替えられた時代。挙句の果てに「廃藩」である。

あとは「戦後の一時期」か。「欲しがりません勝つまでは」から「ギブミーチョコレート」への変換の時代。価値観がガラッと変われば、百花繚乱、いろいろな考えの人が出てくる。キャラを出さなければ生きていけない。雑誌も政党も、出てきては消える。しかしこの頃になると、総力戦の「同調圧力」が記憶鮮やかに色濃く残っているので、「全面講和か片面講和か」のようなイデオロギー論争へと収斂していく。徐々に多様性は失われていく。

国民作家とも言われる司馬遼太郎さんは、戦国時代や明治維新の頃の小説を好んで書いたという。

それは彼が1961~1990年の「一億総中流の時代」に活躍し、その平和と安寧の中で、実はこんな時代もあったんだよと紹介する「歴史の語りべ」(ただし司馬史観で)としての役割を自覚していたからではないか。出世作の「梟の城」(ふくろうのしろ)は、戦国~安土桃山時代の忍者たちが主人公である。「一億総中流とは言われているが、実は、みんな個性豊かな忍者なんだよ!」と呼び掛けて、差異の時代を先取りした作品と言えば言いすぎか。この作品は、ビジネスマンを中心に圧倒的な支持を得たという。

5、ビジネスマンは差異を出す

最後の5つ目のツイートは、「政治」と「ビジネス」の違いについて言及してみた。

政治…国民統合・多数決・民主主義・みんなで豊かに
ビジネス…稼いだもん勝ち・非民主主義・まず自分が豊かに

と極端に仮定するのならば、日本での政治は「同調圧力を強める」方向に働きがちで、ビジネスは「同調圧力を弱める」方向に働きがちである。そりゃそうだ。他の企業でもできますよ、というビジネスマンがいたら、じゃあそっちに注文します、ということにもなりかねない。「他ではできませんよ」「よそとは違いますよ」というのが、ビジネスの第一歩である。

とすれば、自分でビジネスを生み出して、起業するのが、同調圧力が本当に嫌な人が目指すべき方向の1つではないか。

もちろん、「同調圧力から逃れたいから起業する」という「逃げの姿勢」で始めたビジネスがうまくいくとは言い切れないが、少なくとも、「みんなちがって、みんないい」を暗黙のうちに認めれくれる土俵ではある。

ただしこれが「従業員」の立場だと、「みんなちがって、みんないい」とはならなくなるのが難しいところだ。社内での同調圧力は、企業で勤めたことがある人ならば、多かれ少なかれ味わったことがあるだろう。完全フルコミ(出来高制)の外資企業や保険の外交員などであれば、同調圧力は弱いとは思うが…。

6、みんな違って、みんなで倍返し?

以上、この記事では、5つのツイートを補足する形で、現在の「差異の時代」について考察を進めてきた。

ネット環境やSNSが発達して、「ネットの中の自分」が容易に世の中にアピールできるようになった昨今。1961~1990年の「一億総中流の時代」には、マスコミに行ったり専業作家になるしか手がなかったアピールが、1991~2020年の「差異の時代」には、簡単にできるようになった。

もちろん5で述べたように、ビジネスの世界ではすでに、違うことこそ正義、アピールしてなんぼであった。

江戸時代であっても、比較的、同調圧力の文化に染まらなかったのは商人たちだったろう。もっとさかのぼって室町時代などは、比較的幕府のしめつけがゆるかったために、商業が発達し、自由な文化が生み出された。

しかし「座」によって商人たちの間でも既得権益を守ろうとする集団、言い換えれば「同調圧力」を重視する集団が生まれたのも、歴史の趣深いところだ。江戸時代の商人たちの間でも、「株仲間」が生まれた。「差異」→「勝ち組誕生」→「既得権益を守る」→「同調圧力」→「破壊」→「再び差異」。業界の誕生・成熟・衰退などのサイクルは、近現代だけでなく、昔から行われてきたように思う。

そろそろ、無理やりまとめていきたい。

今の時代は、副業(複業)も容易に始められ、差異を出すことが比較的認められている。いわば百花繚乱の時代だ。その一方で、問題(と思われる)を起こした有名人などに対しては、「一斉に」誹謗中傷し、炎上させる状態も日常茶飯事。「みんなで叩けば怖くない」的な同調圧力もある。

この記事を書いている2020年9月27日は、大人気ドラマ『半沢直樹』の最終回放映の日でもある。半沢直樹は、筋を通す。既得権益を守ろうとする悪党どもに対して、倍返しをする。その「型破り」「タブーを恐れない」行動に、視聴者は留飲を下げる。しかし皮肉にも、その高い視聴率こそが、この「差異の時代」にも厳然として生き残っている「同調圧力」の存在を示しているのではないか。

「みんなちがって、みんなで倍返し」はできない。

だからこそ、自分に代わって悪党どもに倍返しをしてくれる半沢直樹に、視聴者は熱狂するのである。それは、江戸時代に面と向かって幕府を批判できない民衆が、歌舞伎の演目に熱狂する構図と共通している。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。









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