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歴史を「面」で捉える ─ 京都探訪 vol.1 ─

1000年の歴史が今も息づく古都・京都。

今回は京都を訪ねて強く感じた、歴史を「面」で捉えることの必要性について、特に印象深かった南禅寺を訪れた際の経験から考えたことを綴る。探訪以前の考えが変わったので、何か気づきが得られれば幸いである。

探訪以前

探訪以前、南禅寺と聞いて真っ先に思いつくのは「五山の上」という言葉だった。高校の頃に日本史Bで南禅寺について学習した際に印象に残っていたのは、室町時代、足利義満が臨済宗の五大寺として京都五山を定め、その上に別格の存在・五山の上として南禅寺が列し、五山文学の中心地として栄えたということだった。

今思えば、

南禅寺=室町時代に繁栄した禅寺

という短絡的な点や線でしか捉えられていなかったのである。

今思えば、現在まで続く歴史ある寺院の歴史が1点のみ・1本の線に収束するはずなどあり得ない。

南禅寺の歴史

南禅寺の歴史を軽く整理しよう。詳細の把握は必要ないのでこのパートは読み飛ばしていただいても構わない。

鎌倉後期

亀山天皇の離宮として営まれた。
亀山天皇はその後、出家して亀山法皇になる。この際に離宮を禅寺として開山した。

室町・戦国時代

足利義満によって五山の上に列せられ、傑出した禅僧が集まり、五山文学の中心的寺院として繁栄を極めた。狩野元信・永徳ら狩野派も障壁画を描く。

しかし、度重なる戦乱で伽藍が焼失してしまう。

江戸時代

家康に仕えた金地院崇伝らの力によって再興される。
狩野探幽が有名な襖絵「水呑の虎」を描いたのもこの頃。

筆者撮影。三門からの風景写真
藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した兵を弔う為に寄進。
石川五右衛門の「絶景かな、絶景かな」の伝説が有名

明治時代

明治になると境内には衰退した京都再興策として琵琶湖の水を引く水路閣ができる。

筆者撮影。水路閣の写真。
禅文化の漂う境内の中で明治期の雰囲気が感じられる。

現在

今も禅寺として禅の文化を継承し、歴史を伝える大切な役割を担っている。

参考

歴史は重層的 ─ 南禅寺 ─

歴史を見れば一目瞭然なのだが、一見1つに見える南禅寺は永い時の中で多様な人々の手によって様々な性格に変化しながら今もなお歴史を織り成し続けている。

歴史は点ではなく線である

よく言われる言葉だが、今回の経験で「このように単純なものなのだろうか」と疑問を抱いた。

南禅寺の例を見るとわかるように、天皇の離宮、五山文学が花開いた文化の中心地、最高権力を得た禅寺、京都再興の水路を築いた場所、禅文化を世界に発信する観光スポット等々…

歴史的建造物は時代と共に目まぐるしく性格が変遷していく。創建当初の背景・最盛期を知っているだけでは全体像は見えていない。形を変えずとも過去の性格ひとつひとつが流れとなり、何本にもなって重層的な歴史を作る。それが1つの建造物として現在も存在する。
歴史は必ずしも1つの流れを持つ1本の線ではなく、沢山の流れが連なって1つの「面」を作っている。

自分の中で考えがまとまった時は歴史がいかに重層的で複雑なものかがわかった瞬間であり、寺社や遺構を巡る多くの人に共有したい、と強く感じた瞬間だった。

ぜひ歴史的な文物・遺構に触れる機会がある際には、それが一時代のみを反映したものではなく、現在まで続く歴史の流れ・時代ごとに持った特徴に目を向けて見てほしい。


歴史を点でも線でもなく、「面」で捉えてみてはどうだろうか。


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