”当たり前”のレベルが上がりすぎた

要点
現代の人間に求められる当たり前のレベルが上がりすぎた結果、適当に親になることが難しくなった。

 ここ数年の問題ではないが、私たちに求められる”当たり前”のレベルは上がり続けており、多くの脱落者を産んでいる。”当たり前”のレベルとは、例えばコミュニケーションにおける気遣いや想像力、マルチタスクを並行して処理する力、変化に応じて柔軟に対処していく力、ポリティカルにコレクトネスになるよう当意即妙な発言をしていく力などの総体として理解されるものである。つまり社会が私たちに求める最低ラインの能力レベルのハードルがかなり高くなっているということだ。

 この潮流にはもちろんメリットもある。私たちはかつてないほど人間関係で煩わしさを感じない快適な社会を生きられているほか、低コストで良質なサービスを享受することができている。例えば人間関係では粗暴な振る舞いをする者は確実に減少してみんな”いい子”になってきているし、コンビニやファミレスでは最低賃金に近い給料を支払うだけで複雑なタスクをマルチにこなすアルバイトが出現し、客である私たちは快適なサービスを受けられる。

 他にもたくさんのメリットがあるが、まとめれば社会における”当たり前”のレベルの向上はそれについていける人間にとっての快適性を社会の隅々にまで浸透させていったと言えるだろう。

 だが、この潮流にはデメリットもある。その一例が子育ての難易度の上昇だ。これはつまり、”当たり前”のレベルが上がった結果、我が子をそのレベルについていけるように育てて勝ち組にしなければならない圧力が高まっているということだ。加熱する都市部での中学受験戦争はその象徴と言えるだろう。
 かつては子どもは産めよ、育てよの時代だった。これが成立するための前提の1つは我が子が周りと同じように育てばいいという考えだった。子どもはただ大きな病気や不幸もなく無事に育ってくれればいい、生物として生体に育ってくれればいいという感じだ。
 しかし現代(もちろん現状では都市部に限った話ではあるのだが)はそうではない。子どもは周りと同じ存在ではなく、周りより秀でた存在として育てねばならなくなった。負け組になって社会を回すだけの奴隷のような生活を我が子にさせるわけにはいかないという親の考えが透けて見える。
 こうして現代の子育てには親ガチャや子ガチャというように偶然の不運を嘆くワードが流行することになる。周囲と同じように育てばいい時代では親や子ども自身の当たり外れなんてさほど問題にならなかった。
 さらに厄介なのは子育ての成功・失敗の強迫観念が普及しつつある結果、子育ての責任が家庭もとい親にだけのしかかってきていることだ。子どもは後天的な教育によって能力が伸び、それに応じた地位を配分することは正当であるというイデオロギーのもとで社会は運営されているが、実際子どもの人生を左右する学力や容姿、実家の太さのほぼ全てが家庭、親の産物であることがもはや明白になっている。ゆえに子どもの人生を成功させるための過大な責任が親にのしかかってくることになり、親は自身がハイスペックになるだけでなくハイスペックな相手を捕まえて子をもうけることが要求されるようになっていく。完璧主義すぎるだろうが、現代の合理的な子育てはそういうものだ。

書き散らしなのでここでおしまい。


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