CD:チマローザ『女の手管』

チマローザのオペラを聴いた。

『女の手管』

何を歌っているのかどころか、粗筋すら知らずに聴いた。

何だかよく解らないけれども、兎に角、面白いし、何よりアリアがことごとく美しい音楽。

どんどん、畳み掛けていくスピード感も堪らない。

そういう解りやすさが、もしかしたらチマローザの音楽を、幾分か平坦なものにしてしまっているのかも知れないけれども、目まぐるしく駆け巡る舞台に、往時の聴衆が熱狂したのも頷ける。

モーツァルトは無論、ロッシーニの音楽だって、チマローザに比べたら余程奥ゆかしく思えてる。

気持ち好い程に明け透けだ。

チマローザは、スタンダールがこよなく愛した作曲家。

モーツァルトの音楽も熱烈に愛していたけれども、彼の性分に最もシンクロしていたのはチマローザだったのだろうな、という気がする。

ゲーテもまたチマローザを愛していたのがちょっと意外なのだけれども、この人もまたモーツァルティアンでもあったから、当時の人達の感覚では、チマローザとモーツァルトは、同じカテゴリーに属するい天才だったのかも知れない。

その分別のなさを、18世紀の聴衆がまるで本物を見分けることの出来ていなかったかの様に思っていたのが、20世紀という時代の色だったけれども、どちらもファッションだから、何時だって聴衆は簡単に染まるのだ。

陰影がなくて能天気。

これで、軽薄な感じがしないのが、寧ろ、不思議なくらいの音楽。

この陽気さこそ、あの時代が、心から欲したもの、社会の闇の裏返しだったのかも知れない。

そう考えると、社会の闇を更に抉る様なモーツァルトのあり方は、世間に受けるのは難しかったろうし、却って悪趣味なものだった様にも思われる。

今回、聴いたのは、1959年の実況録音。

優れた音質ではないけれども、モノラル録音なのもあってか、音楽全体に一体感があって密度が高く、さほど古臭さも感じなかった。

今なら、チマローザの生きた時代の流儀にもっと寄り添った演奏が聴ける筈だけど、そんなにかしこまったたところで、スタンダールやゲーテが愛したチマローザの本性が、炙り出されるものでもない。

寧ろ、作者の意図など無視して、面白さと歌の競演に走っていた、前時代の方が、チマローザの本質には近いとも限らない。

チマローザやモーツァルトの同時代人には、サリエリという作曲家もいて、この人も生前は高く評価されていた。

聴いてみると、常識人だったのだろうな、という気がする作風だ。

モーツァルトやチマローザの音楽にある、ある種の下品さがサリエリの音楽には見当たらない。

否、知略を尽くした様なあざとさはあるのだけれども、息を吐く様に嘘をつく天性のものじゃない。

その点は、サリエリはハイドンと才能のあり方が似ているのかも知れないけれども、ハイドンよりも余程素直に、手の内を明かす人のよさがある。

モーツァルトの時代の音楽は、聴けば聴く程に、モーツァルトが如何に特別で、また特別ではなかったかが見えて来るのが面白い。

その中にあっても、チマローザの音楽にある、奥行きのない機知は、最も人を喰ったものかも知れない。

能天気なのはチマローザの方なのか、それとも我々の方なのか。

怪しいものだ。

もっと、チマローザのオペラが聴きたい。

内容が解らなくても面白いオペラなんて、チマローザくらいのものじゃあないか。

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取り留めもなく、思い付くままに、書き捨てて、聞き流し、目を逸らす。 住所一定無力、自称社会人。