神様アニメ

正に勝った、私が勝った、勝ってイケイケのヤバい、天の稲穂の神様だよ。

そんな名前の神様がいる。

って書いたら、多方面から袋叩きにされそうだけれども、古事記の講読で誓約の場面を習った時に、何だか日本のハイライトはここだな、という感じがして、アメノオシホミミノミコトの神名には忘れ難いものがある(実際、試験に出るから暗記の必要があった訳だけど)。

正勝吾勝々速日天之忍穂耳命

まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと

逆に、天孫ニニギノミコトの神名は、ちっとも覚えられなかったなぁ。

正勝は、「まさかつ」と読むよりも「まさか」と読む方がメジャーなのかも知れないけど、それだと、正勝吾勝は、まさしく私が勝ちましたよ、くらいの意味になるから、まさかつと読むのが好きだ。

天照大神と素戔嗚命が、身の潔白の賭けをして、アマテラスの持ち物からスサノオが生んだ神様が、この「俺っちの勝ちっすよ神」な訳だけど、これをもってスサノオの勝ちが決まったと同時に、この子は私の持ち物から生まれたんだから私の子よ、とアマテラスが親権を主張して引き取るあたり、そのダイナミズムが堪らない。

日本書紀になると、話はもっと複雑で、そこには権力闘争と正統性の駆け引きの生々しい記録を読み取ってもよさそうなものがある。

そういう所も含めて、神道は素晴らしいなと思うし、同時に、職業選択の一つとして神職はないな、という気持ちも増した。

この神様、地上は嫌だ、と言って天から降りて来なかったのも、傑作だなと思う。

その結果、選ばれたのが、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命という事になる。

天は栄えて、地も栄える、天の男神の男の子の、稲穂爆実りの神様だよ。

あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと

天孫ともなると、美辞麗句が大半となって来て、何だか尤もらしく何も言わない奥ゆかしさに、大和魂が見てとれるとでも言うのがよいか。

最近、『ノラガミ』と『神様はじめました』というアニメを、今更だけど、一気観したので、ふと、そんな事を久し振りに思い出した。

西洋人が困ったらギリシャに立ち返る様に、日本人は記紀神話に立ち返る。

否、僕らが本当に困った時に立ち返るのは、諸子百家や仏法の方だろうか、それも我が物顔で悪びれもなく。

正直、どっちでもよいと思うし、僕らが願うほど、僕らのルーツにはオリジナリティーなんてものはないだろうとも思っている。

選民意識は、何処の誰にもあるものだから、持っていて良いものだけと、振りかざしても、錦の御旗は、何処にも誰にもあるものだから、万国旗と変わらない。

『ノラガミ ARAGOTO』は、効果音楽の素材を廻って、イスラム社会を深く傷付けてしまったけど、同時に、THE ORAL CIGARETTESというバンドが、世界的にヒットしたのもまた、この作品あってこそだ。

実際、オープニング曲『狂乱 hey kids』は、大変好くって、モーツァルトの19番コンチェルトにも比類する爆上げな名作だと思っている。

日本のアニメがイスラム教に無自覚に喧嘩を売ったというニュースは、記憶にあったけれども、その頃は、正直、アニメーション文化なんて無意識に軽蔑していたので、それが、ノラガミという作品の話だと気が付いたのは、すっかり観終わった後、この作品の海外での評価ってどんなものなんだろうか、と何気なく検索してみた段になってからだった。

日本の宗教観は、寛容で、どこの宗教とも喧嘩しないものと思われ勝ちだけど、その実、結構、無自覚に排他的な所があって、無意識にマウントを取ろうともしている。

無宗教の名の下に、実際には自分がセクトに縛られて生きている事にも無頓着だ。

ノラガミも神様はじめましたも、共通して、黄泉の国へ降りる件がある。

その描かれ方は、素材としての使われ方は、全く違ったものだけど、第二期のハイライトとなっていて、出雲に行くのもデフォルトだ。

神話に立ち返っても、アマテラスが生まれるのは、黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが禊した時だから、一般的には、記紀神話の宗教的なカタルシスも、この辺にあるのかも知れないし、ギリシャのオルフェオ物語に既視感を覚える様に、広く人類の原風景みたいなものがあるのかも分からない。

神事で最もメジャーな祓詞もまた、その内容の大半は、イザナギの禊の折に、祓戸の大神が生まれた事を語っている。

口に出すのも恐れ多いイザナギ様が、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で、禊した時に生まれたお祓いの神々よ、悪いことまとめて祓い清めちゃってね、と申し上げますからどうかお聞き届け下さいませ、と恐れながら申し上げます。

掛介麻久母畏伎伊邪那岐大神。筑紫乃日向乃橘小戸乃阿波岐原爾、御禊祓閉給比志時爾生里坐世留祓戸乃大神等、諸乃禍事罪穢有良牟乎婆、祓閉給比清米給閉登白須事乎聞食世登、恐美恐美母白須。

やたら住所が細かいのと、こんなに低姿勢でお願いしてますよ、と状況報告するだけで、その実、図々しく神頼みするのが、お祓いの醍醐味だ。

句読点は、意味の切れ目というよりは、唱える時の、息継ぎの切れ目かな。

神道は、姿勢を見せる宗教だな、と思う。

思想よりも言葉が大切で、心は姿にこそ現れるものだと信じてある。

そこが、尊く、険しい道だ。

カタチは一大事であって、偶像にはあたらない。

音声は意味にも優る。

型の文化は、形式的だと言うのは論外としても、スケールは確かに小さいかも知れないな、と思う。

型破りは、必ずしも破天荒ではないから、自由な発想、創造力には劣るとも限らない。

神様はじめました、という作品は、殆ど女性向けの性癖ものだ。

神道をダシにして、設定として少しばかり拝借して、欲望に忠実に、性を解放したところに、ある種の清々しさがあって、観るのは少々気恥ずかしい。

けれども、考えてみれば、記紀神話の方が、破廉恥でゲスなエピソードの宝庫なのだから、これもまた、正統な後胤で、僕らは未だにきちんと神代を生きている、そんな気分にもなって来る。

神道には、説法も神学もないから、神話はどこまでも風俗に息づいていて生々しい。

ヨーロッパがギリシャを忘れられないのも、案外、その生々しさにあるんじゃないのかな。

バロック・オペラを鑑賞していると、そこにあるのは、神様はじめましたに通じるマインドじゃないかと思う。

エジプトのファラオの中でも、ツタンカーメンの名前は最もよく知られているけれども、エジプト王朝の中では異端の時代だったアマルナ時代を終わらせた夭折の王だった。

アマルナ時代は、エジプト王朝が唯一、一神教に傾いた時代で、人類が一神教を発明したのもこの時だったと言われている。

エジプトが一神教に傾いたのも、直ぐに一神教に耐えられなくなったのも、宗教的な理由よりも政治的な理由が強かった。

けれども、宗教改革というものは、いつでも一神への引き締めに始まって、その息苦しさに耐えられなくなった所で終焉する様に見えるのもまた、キリスト教を見ても、日本仏教を見ても、余り変わりがない。

だからこそ、イスラム世界の人々が、どの様な思いで生きているのかには、想像もつかないものがあって、僕らは、うっかり冒涜しても、その深刻さに想いを馳せるのも難しい。

天孫ニニギノミコトは、乱暴に言ったら、富士山という美しい女神と結婚した。

木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)だ。

この女神には醜い容姿のお姉さんがいて、ニニギノミコトは、美しい妹の方のみを選んだために、神様なのに子孫の寿命が人並みに短くなるという運命を背負う事となる。

これは、天皇の寿命が人並みな事への整合性をはかる為の設定だと思うけど、全般的に、醜女に対して、記紀神話は辛辣なんだよな。

そのカウンターとして、21世紀には、イケメンは正義という時代がやって来て、少子化が本格的に進むのも、イザナギの復讐劇の第二幕の始まりなんだ、とでも言ってみようか。

そんな神話な社会が崩壊するのか、神代は未だ未だ続くのかは分からないけれども、穢れを水に祓い流して、行き着く先が今日ならば、僕らに残された道は、黄泉竈食いとも限らない。

それとも、臭いものには一切合切蓋をして、黄泉から生還する夜卜や奈々生をめでたいと眺める事が、今日の禊の有り様というのならば、せめて、潔斎くらいはやった方がよかろうか。

聖書によれば、楽園からは、知恵の実を喰うことによって追放された。

それをも信じるならば、僕らは、食うという事に対して際限がない者の末裔だけど、黄泉に暮らす者でも、未だない。

そんな間に揺れる人草を、或いは、考える葦だと看過したした者もいた。

古事記によれば、イザナミが火の神を産み死ぬ間に、その尿から生まれたのがワクムスビ、そして、その娘が、トヨウケヒメとされている。

ワクムスビもトヨウケヒメも、食に関わる神様だ。

そして、愛する妻を亡くしたイザナギの流す涙からは、ナキサワメが生まれる。

こちらは、水の神様と信じられている。

それは、神話の類型からすれば、決して、珍しいパターンじゃないのだろうけれども、生死と食に対する、古人の鋭敏さが現れていて、記紀神話の中でも、とっても印象的な場面の一つだ。

アニメーションは、エンターテイメントに振り切っているものだから、そういう背景を、一々掘り返したりはしないけど、例え、逆ハーレムものであろうとも、観るものに生の本質を改めて問うて来る、それが神の神たる所以という気がした。

そんな感慨は、こちらの勝手かも分からないけれども、神に触れるとは、万事そういう事だから、きっと、作者にもそれ相応の覚悟はあったに違いない。

否、無くたって一向に構わないというのが、一貫した神道の戦術であって、その分だけ社会に根深く巣食う事が出来ている。

どこまで無邪気に面白がってよいのか分からない、そんな深淵がアニメーションの世界線にも覗いていやしないかな。

って、一々考えている脳は、きっと漢意の名残に相違ない。

正観吾観アニメーション。

そんな具合が、精々、僕らの本地というものだ。


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