音楽:古くて素敵なクラシック・レコードたち、または悪趣味ということ

村上春樹という作家がいる。

文学に疎いので、一度も読んだことはない。

けれども、高校の教科書に、作品が掲載されていた記憶はあるので、それなりには、評価されている作家らしい。

私にとって、この人は、大作家というよりは、困った輩だ。

音楽が好きらしく、音楽についてよく書いているらしい。

そして、どうにも影響力もあるらしく、ある日、突然、レコード市場に価格の天変地異が起きる一因となったりするから、厄介だ。

イストミンなんて地味なピアニストのシューベルトが、何故か急に品薄になったり、ヤナーチェクのシンフォニエッタが、矢鱈と店頭に並んだり、辺境地であった筈なのに、何時の間にか、人々が大挙して訪れ、よく言えば賑やかに、悪く言えば騒がしくなる。

密やかに愛でていた勝景地に、ある日突然、大量の観光バスが訪れる様になった、なんて事は、この総発信社会では珍しくもないことなのだろうけれども、いいように踏み荒らされた挙げ句に、また訪問者は疎らとなって、開発と荒廃が、てぐすね引いて待っている。

そもそも、秘境は冒険者の特権というのも、住まうものからしてみれば、余所者の奢りなのだから、密やかな気持ちもまた迷惑には違いない。

精々、土足で上がるか、下足はするかの些細な礼法の相違に過ぎない。

勿論、村上春樹という人は、丁寧に靴を揃えて脱ぐ人だ。

否、読んだこともないのに、そんな事を断言してはおかしいのだけれども、イストミンのシューベルトをわざわざ取り上げる人に、無作法な人間がいるだなんて、逆に想像もつかないというものでしょう?

レコード店に行ったら、村上春樹の新著が積み上げられていて、ふと、そんな考えが頭を掠め去った。

ただ、もっと鮮烈に考えたのは、お願いだから、今、自分が探しているレコードについて、触れてくれるなよ、という事。

求める者の分母が小さければ、レコードの値段など、分子が少なくとも二束三文の世界だ。

それが一度、分母が増えれば、庶民の手には負えないものとなる。

こんな事を言うのは、おこがましい事だけれども、村上春樹さんって、どうも音楽の趣味が好さそうで、詰まりは、悪趣味な所があるらしい。

だから、今回の新著には、少しだけ興味が沸いた。

言わば、これは禁書の類いだ。

それこそ、私は村上春樹という作家を知らない。

そんな輩が、俄に、大作家のレコード・エッセイを貪り読むのなんて、不謹慎で、無作法で、余りに無垢だろう。

せめて、ノルウェイの森くらいは、読んでみてからにするべきだ。

そんな大人の良心が働いたので、結局、村上春樹は、名前くらいしか知らない作家の一人のままだ。

野村胡堂も五味康祐も、未だに読んだ事がない。

多分、一生、読まないとも思う。

それでも、ビーチャムの名を見れば、或いは、ラインスドルフのモーツァルトを聴けば、自ずとこの輩達の名前が思い出される。

レコードというものは、つくづく、悪趣味な発明だったと思う。

とても、良い嗜みでは済まされない。

そんな中でも、村上春樹は、相当にやくざ者であるらしい。

そういう人がいるらしい、そんな気配を僅かに感じ取るだけでも、嬉しくもあり、鬱陶しくもある。

文学の畑もまた、似たり寄ったりりなのかは知らない。

けれども、誰にも、その人なりの勝景地はあるものだ。

しかし、如何なる秘境もまた、誰にも独占され得るものではない。

土地の歩む歳月は、一人の人間の人生の総量の比ではないものだから。

レコードもまた、大地ほどではなきにせよ、人間よりは長寿だろうし、人類の歴史からすれば、刹那的な戯れに過ぎない。

大文学も、人類と共には滅ぶだろう、そんな息の長さがある。

今日は、ベルマンの録音で、巡礼の年でも聴こうかな。

ベルマンのリストは、CDがとても安価に比較的沢山出回っている。

余剰に中古品が市場に溢れたという事だ。

どうしてそんな事になったのか。

結局、悪趣味は、マジョリティにはなり難い、そんな性質を孕んでいるのだろう、と間抜けに考えて、後は聴くだけ。

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