CD:サン=ジョルジュとよいレコードと

良いものよりも、好いものに惹かれる。

誰しもそういう性癖を持っている。

少なくとも、自分はそうだ。

それは音楽であれ、日々の食事であれ、情愛であろうが、余り変わりそうにない。

サン=ジョルジュのヴァイオリン・ソナタを聴いていて、つくづくそう思った。

とても好かったのだ。

そして、これはそんなに良くない気がした。

こういう書き方をすると、サン=ジョルジュという人が、無能な作曲家であったかの様に取られそうだけれども、勿論、そんな事はない。

フランス革命前夜のパリで、母親が奴隷階級の出身であったにも拘わらず、確固たる名声を獲得したのは、知略もあったにせよ、才覚に恵まれたからに他ならない。

実際、サン=ジョルジュの音楽は、往時の趣味を偲ばせる、美しさを湛えている。

ただ、全人類史から見れば、この時代のパリの作家は、例えば、同時代に活躍したハイドンやモーツァルトに較べると、地産地消的な味わいという感もある。

それは、地理的にというよりは、時代的な拡がりという点において、やや刹那的で自己完結した音楽趣味であったと見える、という意味で。

そういう、ある種の閉塞感にこそ、こちらもまた大いに惹かれているのだけれども、それにしても、この時代のパリの音楽は、構造が比較的単純で解りやす過ぎるかも知れない。

ゴリゴリの元祖ロック世代が、今の普通の高校生くらいが好みそうな、最先端の量産型邦楽ロックには、到底、満足できない、そんな不満に近いものが湧きそうな造りの音楽はだな、と思う。

そして、僕は、当然、そういう言ってしまえばより稚拙なものの方に惹かれる。

勿論、何の恥じらいもなしに、心から愛でている。

幼少期のモーツァルトが模倣し、早々と大芸術に昇華して捨て破ってしまった時代の空気を、大人がいつまでも真剣にやっている様な長閑さが、ブルボン朝末期のフランスには充満していた様である。

それを臭気とかぎ分けた人も沢山あったし、溺れた輩もわんさかいたに違いない。

その中には、ありきたりの才人も、とんだ才人も当然いた訳だけれども、サン=ジョルジュの音楽は、私の危うい平衡感覚で断ずるならば、正に、この時代の標準的な、普通の才能ある人だった様である。

評価され、売れるだけの才能があり、やがて歴史の彼方へと忘れ去られていくだけの、時代の空気を吸っている。

そして、そんな人にも、再び日の光を浴びせねば済まなくなったのが、先の大戦以降の世界が目下、直面している、良識と懐古趣味との混淆が綾なす美意識ではあるまいか。

メディアの革新が、皮肉にも、過去を葬り去る事を拒むのだ。

僕らには、墓場を暴く良心がある。

それは迷信よりかは未だしも立派な信仰である、と言っても構わないけど、本音を言えば、どちらの信心も相当に美しいものだと信じている。

サン=ジョルジュのソナタのレコードは、ヴァイオリンがジャン=ジャック・カントロフ、チェンバロがブリジット・オドブール。

LP時代に企画された、知られざる音楽の発掘物を、わざわざCD時代に再発した、極め付きの懐古物の一枚だ。

ここには、18世紀の空気も閉じ込められているし、20世紀の趣味も詰まっている。

何周も回っては、却って新鮮と映ったり、カビ臭い遺物となったりして、目下、今は眠りにつている頃だろう。

懐かしむ人も少ない代わりに、眉を顰める人もいない。

だからこそ、今、僕にはこの音楽がフラットに聴けている、なんて事は、勿論、言わない。

寧ろ、盲目的に貪って、誰にも分け与えずに独り占めして、喰い意地の汚きこと限りなしだ。

しかし、好い、という事は、本来、そのくらい意地汚い執着ではなかったか。

サン=ジョルジュの音楽は、クラシックが確率された時代の耳には、単純と言うか、安直と言うか、きっと当世の専門家ならば、こんな音楽は誰でも簡単に書ける、今更掘り出す様なものじゃない、という類いのものだ。

否、モーツァルトの大天才をすっかり模倣するくらいの技術がなくては、とても専門家なんて務まらない時代であるから、大切なのは、何を発明した人なのか、という方なのかも知れない。

その点では、サン=ジョルジュは発明家ではなかったし、ついでに言えばモーツァルトだって、稀代の拝借家に過ぎなかった訳だけど、20世紀は、モーツァルトに特別な何かを聴き分けた。

それが何かは、21世紀に生きているのに、未だに私には全く何だか解らない。

ただ、モーツァルトを取り巻く時代の様々な音楽を聴いて、より好いなと思う作家を幾人も見つけて、愛でて、それでも何となく、否、だからこそ痛烈に、モーツァルトはやっぱり稀有な才能だな、と漠然と直覚している。

良い、という事は、元来、そのくらい忌々しい呪縛ではあるまいか。

昨今、サン=ジョルジュの音楽の再評価は進んでいて、往時程ではないにせよ、比較的、聴く機会には恵まれた作曲家となっている。

黒いモーツァルトという賛辞も過去のものとなり、よりストレートにサン=ジョルジュとして受容されつつある。

ジャン=ジャック・カントロフは、時代考証の専門家ではないから、ピリオド楽器奏者の演奏に慣れた耳にには、不徹底な部分もありそうだし、歴史的な誤謬もきっと孕んでいる。

そして、勿論、そんな不徹底と孕みに惹かれるのが、こちらの人情という算段だ。

だから、素直にとてもよいレコードだなと思って聴いた。

サン=ジョルジュの音楽は、そこまで好きでもない筈なのに、好き好きを軽く超えて来る。

きっと善悪や良し悪しをも凌ぐのだろう。

好いとは実に怪しきものだ。


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