エンドレス、だから、詰まらない?

詰まらない作品がある。

詰まらないという言葉があって、作品という言葉があるから、詰まらない作品がある、という訳ではない。

僕らは平生、もっと直感的に詰まらないし、作品というものは、もっと本質的に存在してあるものだ。

だから、詰まらない作品がある。

けれども、詰まらない、という言葉がは、本当のところ、何者に掛かるものなのか、と言えば、それは怪しくもなって来る。

それは、日本語独自の構造なのか、人類共有の感覚なのかは分からないけれども、作品がある、という事に対して、僕らが詰まらないと感じているのだとしたら、それは、詰まらないのはそう感じる僕らの方じゃないか、という具合に、言葉はしばしば隠された者の方に掛かる様に出来ている。

詰まらない作品が、私には詰まらないと感じられる。

それは、最高に詰まらない事かも知れないけれども、実は、最高に面白い事だ。

僕らは、そごまで、詰まらないという事に対して、清潔な生き物ではないから、詰まらなさの比率を、作品と私の間で、分配して生きている訳だけれども、仮に一割、自分の方に詰まらなさが掛かっていたとして、その一割の責任を追究して初めて、僕らには、詰まらない作品が安心して詰まらなくあり得る。

そういう事を、無意識に成し遂げている、かも知れないし、無頓着に放り投げている、かも知れない、私。

面白い、という事と、面白がる、という事との間には、多くの人が、違いを認めているのではないか。と思う。

詰まらない、という事に対して、僕らは、詰まらながる、という言葉を持たない。

面白がらない、があるから、それで足りてしまうのだ。

それは、単に言語構造の欠陥なのか、それとも、詰まらないという事の核心であって、詰まらない、という事に対して、「がる」ことが出来ない生物として、僕らが存在しているということなのかは、ちょっと面白い事かも分からない。

そもそも、作品が詰まったら、それは困った事に違いない。


YouTubeでスカルラッティのソナタを聴いて、とても面白かったので、同じ録音のCDを購入して改めて聴いたら、思いの外、詰まらなくって、何だか、面白くなってしまった。

それは、一体、何が面白かったのか、よく分からなかった。

面白がってよいのかも、分からない。

ただ、もうこのアルバムは聴かないと思う。

それは、詰まらない事だな、と思った。

何が?

面白いは詰まらない事なんだ。

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