CD:バーンスタイン、アイヴス、ガーシュイン

演技するか、歌うか、踊るか、どれか一つに出来ないものか、、

高校の音楽の授業で、ミュージカル映画の金字塔、ウェストサイド物語を観た時の、率直な気持ちは、そんなものだった。

どんなストーリーだったかなんて、すっかり忘れてしまったけど、観ていて気恥ずかしかった事だけが、記憶に微かに残っている。

それ以来、きちんと聴いて来なかったので、シャーマーホーンとナッシュヴィル交響楽団の録音で、バーンスタインの代表作を改めて聴いてみる。

シャーマーホーンはバーンスタインに師事したアメリカの指揮者で、ナッシュヴィルのオーケストラを一流の楽団に押し上げた立役者。

2001年という録音年代にあって、これ程、アメリカンな音がするオーケストラは、却って、珍しいかも知れない、というくらい明け透けなサウンドで、歌い手達も底抜けだ。

ミュージカル版のオリジナル・スコアを使用した録音らしいのだけど、映画の記憶もないので、違いはよく分からなかった。

バーンスタインって、やっぱり、天才だったんだ、、

改めて、音だけで聴いてみて、そう思う。

エンターテイメントに徹して、先鋭的なものが少しもない辺りも、アメリカという国の、実はとても保守的と言われる嗜好をよく反映してもいるし、何時でも誰でも書けそうな音楽でありながら、誰が聴いても、特定の時代・地域を連想させずにはおかないシンボリックな音楽で、今となっては、同時代のどの作家の音楽よりも、あの時代を代弁してもいる。

究極の個性とは、こういうものかも知れないな。

2021年、初秋の都下、自室でヘッドフォンにて一人聴きながら、しみじみとそう思った。


バーンスタインの音楽が思いの外、心に響いたので、続けて、スティーヴン・メイヤーのピアノで、コンコード・ソナタも聴いてみる。

チャールズ・アイヴスもまた、如何にもアメリカを代表する作家で、コンコード・ソナタは代表作と目されている作品。

ピアノ・ソナタ第2番「マサチューセッツ州コンコード 1840-60年」

アイヴスの作品ほど新奇さに満ちた音楽はない。

けれども、この人の音楽は、強く響く事もない。

それは、心に深く刺さらない、という意味合いもありつつ、作家としてのオリジナリティを殊更に主張しない、意外にも無口で静かな音楽だ、という意味合いもある。

諧謔と思想性に溢れた音楽の様でいて、実は、自分の興味のある話を、特に気負いもなく、雑談しているだけなのではないか、そんな話好きのおじさん、という感じ。

だから、研ぎ澄まされた感性で、多面的・重層的に読み込まれた演奏よりも、臆面もなくだらだらと弾かれた方が、本当の面白さが際立つのではないか、なんて思ってしまった。

もっと素朴におかしな人で、生真面目で詰まらない所のある常人。

不協和音の為に飢えたくない、と言ったのは、あながち、冗談じゃなかったと思う。

その気負いのなさが、個性ともなっている反面、切実な想いが作品に乗らない、力無さともなっているのではあるまいか。

そこまでひっくるめて聴くと、何だかとっても、この人の音楽の本質はロマンチックだ。

勿論、スティーヴン・メイヤーのピアノは、体裁の調った、プロフェッショナルな演奏で、出鱈目なものじゃあなかった。

もっと、目先の事に夢中になって、無邪気に脈略も他意もなく、次から次へと気の向くまま、好きな遊びに興じる子供の残酷な飽きっぽさを持って、アイヴスの音楽に取り組んだら、僕らが思っているよりも、この人の音楽は、本当の意味での大人の味がするのかも知れないな。

製菓用の大判のチョコレートを適当に割って、インスタント珈琲の供としながら、アイヴスを聴いていたら、何だか、そんな気がして来た。

少なくとも、コンサート・ホールで、真面目に聴くような音楽じゃない、これは。


バーンスタインとアイヴスと、普段中々聴かないアメリカの音楽を続けて聴いたので、最後は、淑やかな音楽を。

ケヴィン・コールのピアノ、アラン・ミュラー達の演奏で、最新の校訂譜を使ったガーシュインのピアノ協奏曲。

古今東西、ピアノ協奏曲には、沢山の名作がある。

その最高峰は、聴き手によって違っても許されるならば、私の場合は、ガーシュインに決まりだ。

勿論、異論があってもいいし、寧ろ、余り賛同されるのも気持が悪い。

それくらい、この音楽が好き。

レコードも、可能な限り、見付けたら買う。

ただ、版の違いの事は、正直に言うとよく分からなくて、他の演奏と違って聴こえる部分のどの程度までが楽譜のせいで、どこより先が演奏家の才能なのかは、見当もつかなかった。

そんな罪な耳で聴いている。

これまで、ガーシュインの音楽を、アメリカのミュージシャンが演奏したものは、余りピンと来ない事が多かったのだけど、この録音は、ドンピシャだった。

タスマニアで録りました、と言われても違和感のないくらいニュートラルでストレート。

アメリカ勢のガーシュインって、ちょっと勿体振った所があって、嫌味に感じる事が多かったけど、国際化の波は、遂にアメリカ楽壇にも訪れているらしい。

バーンスタインの音楽には、最高にローカルな音がする、ナッシュヴィルの交響楽団の鄙びた響きがよく似合う。

けれども、ガーシュインの音楽には、もっと清んだ響きが必要だ。

だから、ガーシュインを聴くなら、スロバキアやブルガリアの演奏家が好い。 

そんな本物を、言わば本場物とも言える、この東海岸で録られたガーシュインが越えて来たから驚いた。

21世紀に生きている恩恵を、こんなに感じることもない。 


今日は、何となく気だるくて、外は雨も降っていた。

そんな気分に抗って、アメリカンに過ごしてみたのだけれども、それも、全ては中古レコード店のお陰であって、今回、聴いたアルバムは、何れも廉価なナクソス・レーベルのCDだった。

現金な話をすれば、何れも100円程で購入したものだ。

ガーシュインは仮に700円でも買ったけど、他は、200円だったら、まず買わなかったとも思う。

だからこそ、とても素直にも響くのだろう。

そもそも、定額の配信でいくらでも聴ける音源なのだから、今の時代、音楽を個別に買うなんて事自体が、既に贅沢な話でもあるのだけれども、形のあるものを安く見付けた時にしか響かない音って、間違いなくあるから面白い。

その一方で、安く買ったものは大事に聴けない、という意見も、勿論、ある。

どんな高級品でもバーゲンで買ったらその値段の価値しかない、というのは、プロパー商品を売る為の常套句なのだけど、あながち、心理を突いてもいる。

それにも増して不幸なのは、値段の割りに良かったという、コストに意識をさらわれる事の方だろうか。

兎に角、そんな外的な要因に左右されて、音楽の聴こえ方は規定される。

そう言うと余り快くも思われないだろうけれども、そもそも、消費社会の一大事って、お金じゃないか。

だから、今日は、何時にも増して正直に、現金な気持ち全開で音楽を聴いてみた。

それは、寧ろ、20世紀のアメリカの音楽を聴くには、余りに正攻法過ぎる向き合い方だったかも知れなくて、アイヴスが、前よりも少しだけ、聴こえて来た気持ちになったのも、きっと、そのせいだ。

この人の音楽、全然、現金じゃないんだな。

だからこその反逆児。

とても逆説的で、究極的にアメリカンな作曲家。

こんなに無垢な音楽を聴いて、とっても新奇と思うなんて、それだけ、僕らの無意識が現金だからじゃないか。

ガーシュウィンやバーンスタインの一方にアイヴスが待ち構えている。

アメリカって、本当に目茶苦茶でやくざな国で、最高だ。

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