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自我(エゴ)の生得的[生まれつき]な動機は、生存と獲得であり、どちらも怖れを基盤にしています。

探究心は人間の生まれ持った習性であり、その最も高度なレベルが霊的な探究になります。そしてそれは、わたしは誰なのか、わたしは何なのか、どこから来たのか、自己の起源と運命はどのようなものなのか、神とは何であり、どこにいるのか、といった疑問を生じさせるのです。

『I<わたし>真実と主観性』P167

いろんな形で、たくさんの方が日々、いろんな事を想ったり、考えたり、悩んだり、苦しんだり、腹を立てたり、悲しんだり、心配したり、楽しんだり、喜んだりしながら生きていると思います。

そして、自己肯定感とか、スピリチュアルとか、心とか、見えない存在とか、覚醒や悟りとか、なかなか言葉では説明できない世界を、前向きに理解しようとしている方はたくさんいると思っています。

世の中にはブッダやキリストが伝えた情報はすでにありますが、受け取る我々一人ひとりが、自我(エゴ)が含まれる主観で解釈しているために、真理を素直に受け取ることができないような意識構造になっています。

ブッダやキリストのような愛が基盤の立ち位置の人が、この地球にたくさん増えればいいと思いませんか?

あなたもわたしもそうなれるように、生まれ持った真理を、誰もが共通して理解できるように、デヴィッドRホーキンズさんの言葉を借りて発信しています。

あなたも、ブッダやキリストのような愛が基盤の立ち位置に立つ一人になるために、自我(エゴ)=動物脳(本能)の真理探究をやってみませんか。

是非とも喜びで共にやり続けましょう。


『I<わたし>真実と主観性 デヴィッドRホーキンズ著』P160~P163

しかしいくら知的になったとはいえ、生存パターンの基本構造が動物的であることは今も変わりありません。今日の教育でさえも、生存と成功のために行われています。つまり、自我(エゴ)の生得的[生まれつき]な動機は、生存と獲得であり、どちらも怖れを基盤にしています。

人体のメカニズムも、生得的[生まれつき]に苦痛か快楽かでしか反応しない脳の仕組みや神経科学によって統御されています。この自己作動型の脳の報酬系は、回避しなければならないもうひとつの罠です。人間の知恵は、この報酬系を利用して、人工の報酬/快楽物質を発明しました。たとえば、脳を脆弱にし、再プログラミングしやすい状態にする麻薬類などがそうです。脳は元来中毒に弱いという遺伝傾向があり、それまでの人生の目的がすべて影をひそめ、ほかのものに入れ替えられてしまうのです。

ぜい‐じゃく【×脆弱】 の解説
[名・形動]もろくて弱いこと。また、そのさま。「―な地盤」「―な神経」

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さらに悪いことに、こうしたふるまいやプログラミングされた行動のすべては、それぞれのレベルで人類全体のエネルギーフィールドにエネルギーを発信しています。これらは通常の意識ではアクセスすることのできない影響の領域で強化されていきます。そして、そのプログラムを支持するようなメディアやあらゆる人間のコミュニケーション手段を通じてさらに強化され、社会の承認や不承認を問うことになります。

ここで自我(エゴ)の生得的[生まれつき]起源を述べたのは、わたしたちがそれを作り上げたというよりは、むしろそれを持って生まれたということを明確にするためです。自分自身も含め、誰も好んで自我(エゴ)を作り出したわけではないとわかれば、その罪悪感から解放され、自分自身や他者に対してもっと思いやりを持つことができます。人間の状態は、主としてカルマ[=無意識]的に”与えられた”ものです。それを知れば、非難することもなくあるがままに、思いやりをもって受け入れることができます。そして、それによいも悪いもないことがわかります。人類は、感情的な本能とそれを相殺する霊的な目覚めという力との間の、緊張の領域に生きているのです(すなわち、動物と天使の葛藤)。

【Q:自我(エゴ)が生物学的起源から生じ、遺伝子にも浸透し、社会もそれを強化し、根強くプログラミングされているならば、果たしてそこから抜け出すことができるのでしょうか?】

A:自我(エゴ)を超越することは可能です。大事なのは、自我(エゴ)の習性ではなく、それと”わたし”を同一視してしまうことが問題ということです。

わたしたちは自我(エゴ)を”それ”として受け継ぎました。そして、実際に”それ”は非個人的なものです。あなたがそれを自分だと思い、同一化したときにはじめて問題が生じます”それ”という自我(エゴ)の構造は、それほどユニークでも特徴的なものでもありません。多少のカルマの違いがあるだけで、比較的誰でも似たような”それ”を持っているのです。本当に人によって違いが出てくるのは、そのプログラムにどこまで隷属的に従っているかの程度です。つまり、自我(エゴ)の大小は、どこまで当人がそれと同一化しているかによります。自我(エゴ)は本来何のパワー(ポジティブエネルギー)も持っていません。あなたが霊的に成長するにしたがって、自我(エゴ)のプログラムの影響を減少させるパワー(ポジティブエネルギー)が劇的に増加していきます。これが「意識のスケール」の本当の意味です。

れい‐ぞく【隷属】 の解説[名](スル)
1 他の支配を受けて、その言いなりになること。隷従。「本国に―する植民地」
2 てした。配下。部下。

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自我(エゴ)のプログラムにすっかりはまっているとき、気づきや洞察なくしては、自分自身を助けることはできません。そういう人を見るとわたしたちは、あの人は欲、あるいは憎しみ、怖れ、中毒、プライドによって”動かされている”と言います。こういうときに仮説や道徳の立ち位置を持ち出して、”あの人はこうすべきだ”と指摘するのは誤りです。実際にそれは、まったくの筋違いです。無意識[=カルマ]的に行動するというのは、ただその言葉どおりで、”罪”というのは意識の進化の限界を表しているにすぎません。この限界のことを、ブッダもイエスも”無知”と呼びました。意識の進化がグラデーションで表されるように、ある人たちは他の人たちよりも道の先にいます。この単純な事実がわかれば、赦しと思いやりが、怒りや怖れ、憎しみ、非難に取って代わります。わたしたちは自分自身を赦し、受け入れると、自然に他者を赦すことができるのです。

【Q:限界を受け入れることは、倫理観の欠如や醜行などの罪を招くのではないのでしょうか?】

A:赦すことと思いやりを持つことは、是認することではありません。

ぜ‐にん【是認】 の解説
[名](スル)人の行為や思想などを、よいと認めること。「相手の態度を―する」⇔否認。

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200以下のエネルギーフィールドにいる人たちは、毎日が絶え間ない苦痛にさらされています。クリスチャンの伝統では、罪人たちのために祈ることを教えられます。また、非統合的でネガティブなもの(”悪”)と対決するのではなく、回避し、離れるように忠告します。”罪人”は、霊的な成長が原始的な段階にとどまっている、不運な人と見ることができます。

【Q:自我(エゴ)をよく知ることの目的は、自我(エゴ)の武装を解き、受容する道を開くことですか?】

A:自我(エゴ)が何ものかよくわかっていないうちにそれを”克服”しようとするのは、罪悪感や自己非難など、さまざまなネガティブ感情を誘発します。そしてそれが主な原因で、多くの人が霊的な作業に取りかかることを躊躇しています。また、人々は自分自身に正直になることを恐れ、自我(エゴ)の悪い面を他者、あるいは神にさえ投影します。嫉妬や報復、偏愛などはすべて自我(エゴ)の性質であり、神のものではありません。

より大局的な視点から見ると、自我(エゴ)は”悪”ではなく、本質的に自分本位の生き物であることがわかります。”動物的な自己”を理解し、受け入れないかぎり、その影響から逃れることはできません。まるでペットのように、内なる動物をコミカルで面白いものとして、罪悪感を持たずに見ることもできます。そして、よく訓練をしてしつけることを楽しみにすることもできるのです。この訓練がいわゆる「文明化」という言葉が意味するものです。


2つ前の投稿で同じ文章を書いているのですが、その中の部分を切り抜いてみました。前後の文章は、こちら↓です。

ブッダやキリストのような愛が基盤の立ち位置に立つ人を増やすために、日々、真理探究をしながら、誰もが理解でき易いように工夫しながら発信しています。是非どんどん活用してください。


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