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「名言との対話」10月29日。ヨーゼフ・ゲッベルス「大事なことは大衆が理解しやしすいようにプレゼンテーションしてやることだ」

パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels 1897年10月29日 - 1945年5月1日)は、ドイツ国政治家

ドイツ帝国ワイマール王国出身。4歳で小児麻痺で足が不自由となった。このため後に兵役に不合格となる。ボン大学ハイデルベルク大学などで学び、1922年にドイツ哲学博士号を取得。国際金融の世界を牛耳るユダヤ人への戦いを誓っている。

1925年、ヒトラーと対立するナチス左派シュイトラーサ兄弟のもとで『国民社会主義書簡』を編集する。1926年、ヒトラーと面談し「王者たるすべてをこの男は持っている。未来の独裁者」と魅了される。1927年から1934年にかけて、『改革』編集長として、反ユダヤ主義を宣伝する。1928年、国会議員。1929年、国家社会主義ドイツ労働党ナチス)全国宣伝部長。特異な才能を発揮し「敵はユダヤ国際資本」として活躍を始める。敵である左翼の宣伝手法を取り入れた。ポスターのデザイン、標語に力を入れるだけでなく、シュプレヒコールをあげる大衆デモ、楽隊の行進、野外演説会、突撃隊の利用などで、党勢を拡大した。ナチスは1930年に社民党につぐ第2党に躍進。ヒトラーは「合法的手段で政権を獲得する」と述べている。1932年、ヒトラーは大統領選でヒンデンブルクに敗北するが、ゲッペルスは飛行機の利用、従軍スタイルの記事などでの現代的方法を用いて肉薄した。1932年、ついに第1党となった。1933年、ヒトラー内閣が誕生し、啓発宣伝相、全国文化院総裁に就任。敵を打ち倒すのではなく、敵に勝者たる我々の賛歌を歌わせる方針を採っている。精神革命による国家改造をめざした。

1934年、ヒトラーは大統領職と首相職を兼ねる「総統」の地位を獲得し、国民投票で88.9%の賛成を得た。ゲッペルズはラジオで聞こえるヒトラーの声を研究し、編集して流した。

1936年のベルリンオリンピックの演出を担当し、一大宣伝ショーに仕立て上げて大成功した。聖火リレーはここから始まった。1937年には日本の川喜多長政と、日独合作映画『新しき土』(原節子主演)を制作。ゲッペルスは娯楽の中に刷り込ませる、知識のレベルにあわせて内容をかえるなどの手法を用いた。「19世紀は新聞の時代、20世紀はラジオの時代」と考え、国民がラジオを聴く習慣をつけるよう工夫を重ねている。

1939年のポーランド侵攻から第二次世界大戦が勃発し、ドイツは快進撃を続ける。1943年には、ソ連戦線での敗北を認め、国民を総力戦に立ち上がらせる名演説をしている。

1945年、敗色濃厚となったヒトラーは地下施設で結婚する。このとき、ゲッペウスは立ち会人となっている。ヒトラーゲッペルスを首相に任命し、後事を託したが、ゲッペルスは妻と6人の子どもたちと心中し後を追っている。

宣伝の天才・ゲッペルスの言葉を拾おう。

「正しい時期に打撃を与える」「火山のような情熱を持って、怒りを爆発させ、大衆を行進させ、憎悪と絶望を組織し、さらにそれを冷静に計算しながら、いわば合法的な手段をもって遂行する」。これが真の革命だという。

ヒトラーについては「生まれながらの扇動演説家だ! 彼とならば世界を征服することもできる」と心酔している。

ユダヤ人については「ユダヤ人は非創造的である。彼らは生産をせず、生産物を売買するだけだ」「60%を抹殺しなければならない。残りの40%を労働に使用すればよい」「ユダヤ人を絶滅させることが我々の目標である」という。戦争に勝つことよりも重要だという。

プロパガンダ、宣伝については、娯楽などの中に宣伝と気づかれないように無意識に働きかけることと、誰にもわかるように工夫することと言っている。また「知識レベルの低い階層に合わせた宣伝」を心がけており、「大事なことは大衆が理解しやしぃようにプレゼンテーションしてやることだ」と語っている。それが「好結果」を生むという。

ヒトラーについては、著書も読み、テレビも見ているが、その側近であったゲッペルスについては、はじめてその姿と思想、そしてプロパガンダについての方法論を深掘りできた。大企業で広報を担当していた私には、「無意識に働きかける」のは、今の言葉でいえば「広報」であり、「大衆が理解しやしぃようにプレゼンテーションしてやること」は「宣伝」といえると思う。ゲッペルスは、その両方を駆使した天才だったのである。


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