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「名言との対話」6月10日。赤星六郎「紳士は春風のごとくおおらかであれ」


赤星六郎(あかぼし ろくろう 1901年6月10日ー1944年3月25日)は、ゴルファー、ゴルフ場設計者。

鹿児島県出身。実業家の六男として誕生。父の赤星者のすけは薩摩藩の郷子で、伍代寛貴とヨーロッパに旅した人物だ。日清日露戦争で巨万の富を築いた人物だ。弥之助は男子の4人をアメリカに留学させている。19歳でアメリカに留学しプリンストン大学に入学する。1924年、「パインハーストスプリングミーティングトーナメント」で優勝する。帰国後は、兄の赤星四郎とともに日本のプロゴルファー、アマチュアゴルファーの育成と指導に努めた。

1927年、アマチュア選手として第一回日本オープンゴルフ選手権に出場し圧倒的な成績で優勝をした。1930年のアマチュアゴルフ選手権でも優勝している。六郎はゴルフ場の設計にも携わり、神奈川県の相模カンツリー倶楽部と千葉県の我孫子ゴルフ倶楽部の設計を行っている。1944年に42歳で没。

相模カンツリー倶楽部は名門コースとして有名だが、私は野田一夫先生と一緒に回ったことがある。小田急江ノ島線東急田園都市線中央林間駅の前に広がるコースで、難しかった。キャディーもよくゴルフをしていた。あれが赤星六郎の夢と理想のコースだったのである。

「日本の球聖」と呼ばれた。アマチュアでありながら日本ゴルフ草創期の宮本留吉や安田幸吉を育てた人物でもある。欧米の近代スイングをイオンに輸入している。この時代はアマチュアがプロを指導したのである。あまり知られた人物ではないが、日本のゴルフの歴史を語る上で欠かせない人物である。
「ゴルフコースは一個の芸術として完成されたものでなければならない。設計者その人の性格の表現であり、夢をコースによって変化することなのである」
六郎は「本物のゴルファー」の条件を上げている。相手の身になって物事を考えよ。みっともない真似はするな。余計な事は言うな、虚言を弄するぐらいなら沈黙を守れ。自分を客観的に見よ。自然に振る舞って、媚びるな。威張るのは知性の欠如の証明だ。謙虚な姿勢で練習に励め、慢心はゴルフの大敵と知れ。コースからスコアだけを持ち帰るのにものに友人はできない、そんな人に対してゴルフは多くの友情をお土産にくれる。紳士は春風のごとくおおらかであれ、春風は誰に対しても優しいものだ。(夏坂健「ゴルフの神様」)

日本のゴルフの歴史の草創期の人物であったこと、そして42歳と言う若さでの死であったことなどから、この人物はなかなか知られることはなかった。もしこの人が長寿を保っていれば、日本のゴルフ場の風景は大きく変わったのではないかと思われる。そういえば弟子の1人でもあった安田広吉は、多くのゴルフ場の設計に当たっていることを思い出した。安田はゴルフそのものだけでなく、赤星六郎のゴルフ場づくりの弟子でもあったということだろう。そういう意味では多くの遺産を残したともいえる。

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