見出し画像

「名言との対話」4月10日。大林宣彦「第二の黒澤にはならない、第一の大林になる」


大林 宣彦(おおばやし のぶひこ、1938年昭和13年)1月9日 - 2020年令和2年)4月10日)は、日本映画監督文化功労者。享年82。

広島県尾道市出身。成城大学中退。自主製作映画作家、CM(テレビコマーシャル)ディレクターを経て、恐怖映画「HOUSE ハウス」を監督し、映画監督となる。日本の映画史を切り拓いた「映像の魔術師」。

青春デンデケデケデケ」で芸術選奨受賞。他に、ベルリン国際映画賞、日本アカデミー賞ブルーリボン賞、など数多くの賞を受賞ている。代表作は、出身地尾道を舞台にした三部作「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」のほか、「ねらわれた学園」「はるか、ノスタルジィ」などがある。

大林のテレビでのインタビューなどはよく見ていたが、今回調べてみて大林の映画のキャリアは独特でかつ実に多彩であることに驚いた。

いきなり商業映画の監督にはなれないので、初めは8ミリで自主映画を撮っている。その後、まだ評価の低かったCMの世界に誘われる。私の大学生時代に風靡したチャールズ・ブロンソンの「マンダム」は大林の作品だった。トヨタの仕事では海外ロケの第1号。ホンダ、化粧品、レナウン、コーヒーのCMなどで海外のスターを起用した先駆けとなった。TOTO「お魚になったワ・タ・シ」、国鉄フルムーン、「ワンサカ娘」、カルピスなどあげればきりがない。CM界の巨匠と呼ばれる。

1977年の40歳前から本来の志望であった商業映画の監督になり、友人となった角川春樹と組んで角川映画をつくっていく。代表作となった「尾道三部作」で多くの支持を集めた。また8薬師丸ひろ子などのアイドルを起用し、80年代のアイドル映画の第一人者として活躍する。1992年には『青春デンデケゲケデケ』を製作、吉永小百合の起用、宮部みゆきの小説世界の映像化にも成功している。

2000年代に入ると「ふるさと映画」を標榜し、反戦平和を主張するようになる。2019年には文化功労者に選ばれる。

大林監督の作品は膨大である。映画の世界の最先端を疾走した人生だった。この人は何を考えていたのだろうか。『大林宣彦の体験仕事論』を手に取った。

師匠は映画を発明したエジソンに決める。そして誰もが断る仕事を引き受けながら仕事自体を先生として成長していく。「前例のないことだけをやる」とい考えだった。嫌な人や苦手な人と付き合う。頼まれた仕事しかしない。一番高いギャラを要求する。第二の黒澤にはならない、第一の大林になる。平均点は目指さない。仕事に自分の痕跡を残す。得意なことほど慎重に。いいアイデアは人に言わせる。リーダーは凧である。経過を大事に。たくさん食べて安心させる。名前を覚える。小噺を用意。オンリーワンの時代にプロはいない。みんなでそれぞれに感じ合える映画・61年目の16歳。好きなことには引退はない。映画と出会って幸福だった。満身創痍だが愉しんできたから保った。映画を使ってなにができるか。客観性より普遍性。正義でなく正気。各論でなく総論。各論は情報、総論は物語。プラカードは正義、エッセイは正気。憲法9条は世界遺産。オンリーワンとして共存。今ある自由を大切に。、、、

大林宣彦は映画を天職とした果報者である。映画という武器を使って平和へ向けての闘いを続けた人だ。そして技術に詳しい哲学者でもあった。こういう人が同時代にいたことを知らなかったこと、その思想に触れてこなかったことは残念だった。今からでも大林監督の作品をみることにしよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?