思い出し話:言葉狩りとちょっとした言語学とちょっと怖いかもしれない話。
表題の通りだけれども、ちょっと思い出した話を書いてみます。
最近ではなりを潜めた「言葉狩り」。世界的には人種差別、日本の場合では特にジェンダーやフェミニズム等の問題と合わせて提起が盛んだったのは00年代の終わり頃まででしょうか。
この運動自体が悪いという事は何もなかったわけです。物事を推し進める為には是正は大事なプロセスで、そしてその〈言葉による差別の排斥〉という理念は大いに肯定され、歓迎されるものでありました。
そして運動は実際に一定の成功をおさめています。我々が現在公の場で使う言葉にも少なからず影響していることからもその点について説明は不要だろうと思います。
この運動が現在ほぼ潰えてしまったのは、上記の様に言葉の是正という1つの目標を達成したこともありますが、それ以上に、主なフロントラインであった欧米先進国では「精査」と「議論」が存在し、日本にはそれがなかったという点が大きいと感じられます。
その結果性格を異にする政治活動や個人的な感情論の肯定や弱者権力の行使ともとれる文脈で道具として使用され、それを嫌気した人が離れていった、というのが私見です。
ちょうどこの言葉狩りや言葉の是正が盛んだった頃、私は留学していて現地の翻訳に関わる課程で勉強してました。
それこそ言葉が商売になる仕事、教授陣もこういった問題には敏感で多くの情報やケーススタディが行われていたのですが、
こんな話があります。
一時期男女同権の旨、職業で「男女の別がある言葉」が広範囲に渡り撤廃、改変されていった時期があるのは記憶にも古くないと思います。
例えばスチュワーデスという言葉がフライトアテンダント(客室乗務員)に代わり、日本語では看護婦が看護師になったのはメジャーな例ですね。
その他例を挙げればきりがないのですが、上記した2つの例を見ても、どちらかの性別を意味する言葉が元来の職業名もしくは広く認識されている呼称に含まれている場合「性によらない言葉に是正する」というケースが主だったことがわかると思います。
一方で「逆の性のものを新しくつくる」という選択も採られていました。そして問題の焦点となったのがこのケースです。
経営者や理事といった組織のトップを意味する「チェアマン」という言葉があります。これに対して男女同権の観点から問題提起され、「チェアウーマン」という言葉が作られ一時期広く使われていました。90年代から00年代の初め頃によく見られ、現在でもこの言葉を使っている人もお見掛けします。
で、この言葉が何故問題になったのかというと、言語学方面からの指摘でこのチェアマンの「マン」というのが男を意味するものではないという結論に至ったという事です。
詳しく書くとこの「チェアマン」の「マン」というのは古ラテン語で「手」を意味する言葉が語源で、そこから発展し「役割を果たす人」を意味するものであり、性の別というニュアンスを含まないものであったという事。他の言葉でいうと「Manualマニュアル(automatic=自動に対する手動)」が分かりやすいでしょうか。日本語でも「働き手」「剣の遣い手」「次世代の担い手」など同じ発想から来る言葉は多いですね。
ともあれ、これによって西洋におけるチェアウーマンという言葉の流行と議論については一段の落着を見ました。
のだけれども。
なぜかこの議論が収束した後で日本やアジアでこの言葉を広めようとした動きが見られました。経営者や婦人団体その他個人団体問わず見られたのですが、
「おかしいな」と思ったわけです。
この言葉自体やこの言葉を使っている人間を卑下したりするという話ではありません。ただ根本的に間違った発想で作られた言葉で、すでに作られた当初の理念を体現しないものであるわけです。で、これを広めようとしていた人や団体、特に特定の団体は海外の団体とも繋がっているわけで、そういった情報を得ていて然るべき、というわけです。
つまり「どっかの誰かが意図的に間違った言葉を広めようとして、それにのっかってたヤツがいるのではないか」という事。
例えば都市伝説で「怪人アンサー」というのがありました。これはネット上で都市伝説がどのように広まっていくかを調査するために創作された話です。
これと似た臭いがするな、と。
つまり欧米での運動が日本含めて各国にどう飛び火するか、そして現地に入っている情報の鮮度と質と人々の情報に対するリテラシーをテストする為のある種の実験だったんじゃないのかなと。思っているわけです。
完全に主観で書いている戯言で陰謀論です。
けどね、
実際ここ10年の世論の動向をみてみると極めて似たプロセスを踏んでいるものがかなり多く見られると感じるわけです。
捕鯨問題などいい例でしょう。データを見れば北欧の捕鯨国など日本とは比較にならないほど大量にクジラを捕獲していますが、槍玉にあげられていたのは常に日本でした。これは実態と人々が受け取る情報が乖離したまま問題となった情報が伝播したという点で全く同じプロセスを踏んでいます。
他の今現在提起されている社会問題やそれに関わる運動についても、海外から飛び火したもの、もしくは外国人や移民など海外と関係が深いものが非常に多く、中には実態や当初の目的と乖離が見られるものも少なくないのも知られる所です。
繰り返しますがただの私見で陰謀論です。
ですけどね。
情報のシャワーを浴び続ける現代社会で「精査」と「議論」がないまま無条件に受け入れて騒ぎ立てるという事は、とんでもないことになるのではないか。
そして実際には我々は既に何か「とんでもないこと」の渦中にいるのではないか。
そう強く思うのです。
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