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わたしの信じること

(5月末に自分のノートに綴っていたことを
 わりとそのまま打ち直して記事にします)

江ノ島へ一緒に行った友人が、そのあとlineで書いていた
「身体が意識から離れるように、言葉が意識から離れている
 そんな人も多い(のではないか)」という視点が
そのあとわたしのなかに残っていた

寺尾紗穂さんの『天使日記』p114,115で
彼女はシュタイナーの言葉を引用しつつ述べる。
「言葉」とりわけ「話し言葉」に対して感じる距離について。

「現代の文化の中には理想主義とよばれるものはほとんど存在しない」
「言葉が理想主義なものを表すためには、人間が霊的なものを信じていることが前提となる。なぜなら理想は霊的なものだから」

というのがシュタイナーの言っていること
それを受けて「霊的とは魂と置き換えてもいいだろう」
寺尾さんは書いている
また、シュタイナーが
「未来においては教会という場所さえ必要なくなるだろう」
と述べていることにふれながら


「困っている人を誰もが気にかけずにはいられなくなったとき、魂と魂は容易にその場で触れ合い、そこに温かなものが流れていくのだと思う」
「本当は誰もが、誰かに力を与え、力をもらうことができる。」
「本来、簡単でシンプルなことが、理想主義の否定やさまざまなそれらしき言い訳によって疎外されている。あらためてシュタイナーの言葉に戻るならば理想は霊的であり、優しさが魂なのだ。」

『天使日記』

と綴っている。


わたしはなぜ、話すことが怖い(怖くなっていた)と気づいただろう
そしてなぜ、podcastを試みたろう
またなぜ、ひとり喋りでつらつらと語ることができるのだろう

わたしは、書いていくこれからの人生と
話していくこれからの人生の中で、今こそ自分が
言葉の魂を、意識に 身体に取り戻したかったんだ

寺尾さんが
「心をひらいて気持ちを話せるのは、この人なら、と思える人と大切な話のできる二人の時だ。じっくり気持ちを表現できるという意味で、書き言葉にすることはたやすかった。そしてライブのMCの一人語りというのは思いのほか、この状況に近いのだと思う。暗闇の客席にいる一人ひとりの「あなた」に向かって話しているような気持ちになれる」
と書いていることにひじょうに共感した

わたしもpodcastはいがいとここちがいい。
FBを「あの山」インスタを「あの宇宙」と名を与えた
ひそかなる試みもあったが
その意識と、書くときの意識を一致させておくのは
あるいみで技術なり集中力が必要で

話す言葉に躊躇するわたしにとって
技術とか集中力がわりと通用しない生の現場?の方が
わたしは「あなた」の存在を信じられる
たぶんそういう質の人間なんだ

とはいえpodcastも慣れてくると
たとえばnoteで綴る労力よりも、
思って放つ喋りの楽さに甘えが出る

時間をかけないでもできてしまうこととというのは、
やはり本当におそろしい
自分がもれなく支払っているものの大きさに
しっかりと気づいていなければ
その感性をにぶらせてはいけない

なぜこわくなってしまったか
なぜ「感じられない部分」を育ててしまっていたか
に思いを馳せてみると
感じられない部分こそ
わたしが代償にさしだしてきたものではないか
(もしくは自らが甘んじてきてしまった部分)
と行きつく

「理想を信じる」ことは
いのちの、本来の方向でありながら、
勇気ある者の姿もしている

でもだからこそ、
何を信じるか? どう世界をはかるか? 
そのものさしを自分ではなく
他者や社会基準にゆだねてきた
いいかわるいか
これで正解かどうかなど
そのことには、もう後悔はないけれど

わたしはわたしに根づき
そこにある霊性を知っている。
感じている。
きっとその根づきは一時も離れたことなどない

そこはいかに広大で
同時にわたしはどれだけちっぽけか
謙虚さを少なくとも(以前の)わたしは知っていたはずだ


・・・と、そのことに触れている今
わたしはやっと安堵して、内に喜びをおぼえる
この静けさははじめてだ


わたしの創作活動をサポートしてくださる方がありましたらぜひよろしくおねがいいたします。励みとし、精進します。