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ひさみの超私小説⑤:私の日本での最後のキャンペーンは"Beauty Isn't About Looking Young(美しさは年齢と無関係です)"

私の超個人的なお話⑤。前回の④では、父の死や母に結婚を告げたエピソード、米国移住を決意した結果起きた周囲の声「英語のできないお前は米国ではコンビニのキャッシャーぐらいしか務まらない」など、日本の当時の男性中心の企業社会をまとめた。今回は私の日本のエージェンシー時代のエピソード、結婚式、ハネムーンで降り立ったSFの空港で不法長期滞在と疑われたことなど、盛りだくさんな出来事を記す。

「女主人公の銃の撃ち方がリアルなので」と答えて、Cliniqueの担当営業となった私

1980年、社会人2年目の私はニッカウヰスキー担当チームに配属されていた。チームは、この年外資系化粧品ブランドのCliniqueのアカウントを獲得した。クライアントは部長を除いて、課長以下、担当者は全て女性だった。課長が、真っ先に「化粧品のブランドを扱うチームに、何故女性の担当者がいないのか?」と、鋭く指摘してきた。

今でも覚えているが、応接室にお茶を出していた私を捉まえて、課長は「大柴さんはどんな映画が好き?」といきなり質問してきた。私は、何のためらいもなく丁度見たばかりで物凄く気に入っていた映画『Gloria』を挙げた。

課長に「何故その映画が好きなの?」と聞かれ、「マフィアの秘密を売ろうとして惨殺された一家の男の子を助けて、NY中を逃げ回る主人公のGloriaの銃の撃ち方が物凄くリアルだったこと。さらに子供嫌いのGloriaが、徐々に母性本能が芽生えて、子供を必死に守ろうとする演技が非常に良かったから」と答えた。

『Gloria (1980) 』 監督John Cassavetes 主演女優Gena Rowlands

課長と担当者たちは、私の答えにニヤリと笑って、「大柴さんに是非うちの担当になってもらいたい。チームに女性は必要です」と、ニッカウヰスキー担当の部長に告げた。

後にこの指名の理由をクライアントに聞いたが、彼女は「あなたの視点は他の人と全然違う。そのユニークな発想こそ、当時のCliniqueが他の化粧品ブランドと差別化するのに必要だと直感したから」と説明された。勿論、クライアントは、私の大学の専攻が「マスコミュニケーションと広告」であることを知っており、さらに当時のエージェンシーの女性社員の役割も十分理解した上で、あえて私を指名してきたと思う。

「皮膚医学に基づいたシンプルなスキンケアシステム」という新しい概念をWorking Womenは歓迎した

Cliniqueは、1967年8月Vogueの編集者Carol Phillipsが、皮膚医学者にインタビューした記事“Can Great Skin Be Created”をきっかけに誕生した。そのコンセプトは、当時の化粧品とは全く異なる考えで「肌には自らのチカラで良くなる能力がある。それを引き出すために、皮膚医学に基づいたシンプルな3ステップを、朝晩2回歯を磨くように 実施すればいい。無香料、アレルギーテスト済み」というものだった。

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当時米国のスキンケアは、富裕層の女性達がElthabeth ArdenのRed Doorに代表される美容サロンで受ける高価なもので、一般の女性達には縁遠く、CliniqueのコンセプトはWorking Womenに大きな反響を呼んだ。彼らのマーケティング活動は、アメリカを代表するファッション写真家のIrving Pennが撮影した大胆な製品写真とウィットのきいたコピーで、一切モデルを使わなかった。

1970年代後半日本市場に参入したCliniqueは、皮膚医学に基づいたシンプルンなスキンケアの3ステップ、SPF(Sun Protection Factor)という数値を基に紫外線の悪影響から肌を守るという、科学的なスキンケアの概念をもたらした。当時、日本の化粧品業界は、王者資生堂にカネボウが故夏目雅子の水着姿の「クッキーフェイス」キャンペーンで挑戦して、注目を集めていた時代。Cliniqueは革新的でアンチテーゼともいうべきコンセプトで市場参入を果たした。

私は大学時代から、女友達が肌のトラブルで悩んでいたが、Cliniqueを使いだして、肌が良くなって行ったという事実を目にしており、自分が信じられるブランドの担当になれたと思い、有頂天となった。

"Beauty Isn't About Looking Young(美しさは年齢と無関係です)"

1980年のCliniqueの年間広告支出額は2億7,000万円で、15年を経て1995年私が退社する頃は30億円以上となっていた。当時は4大マスメディア(TV・新聞・雑誌・ラジオ)を中心とした広告展開がメインで(携帯電話もインターネットもソーシャルメディアもない時代)、雑誌広告主体の化粧品業界は、雑誌広告の表2を獲得するために、莫大な札束合戦を繰り広げていた。Cliniqueはこの15年間で、Estee Lauderグループの豊富な資金力と製品開発力を活かし、デパートの売り場面積の拡大(=売上の拡大)に比例するかのように広告費を増やし、外資系化粧品ブランドではNo 1の地位を確立した。この15年間のマーケティング戦略や活動の詳細を書こうと思えば幾らでも書けるが、先がまだまだ長い私の超私小説では、詳細には触れないでおく。

そんな中で1つだけ言及したいことがある。私が最後に手掛けたキャンペーンで、これは、まさにClinique及びその後の私の生き方をそのまま表現したようなコンセプトだった。

"Beauty Isn't About Looking Young(美しさは年齢と無関係です)"というタグラインを掲げて、「若く見える」ことが、女性の美しさにとって最も重要だという、当時の日本社会の常識に対して、強いメッセージを投げかけた。

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「女性は各々の年齢にあったその人なりの美しさがあり、年齢とは単なる数字でしかない。Cliniqueはその人のもつ肌の自助作用を引き出して、その人にとって最良の肌を作り出す」といったアプローチで、様々な年齢の女性達を広告に登場させた。

今でいうところの女性のSelf esteem或いはEmpowermentを促すためのキャンペーンで、これを30年近く前に企画実施したCliniqueの先見性は鋭い。米国本社でCliniqueが展開していたこのキャンペーンを、日本でも実施できたことは、私の日本での最後の仕事として、感慨深いものがある。

1995年は阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件と連続して大事件が起こる激動の年となった

1995年1月17日、マグニチュード7.3、被害者6,434人を出した阪神・淡路大震災が起きた。その後の2011年3月11日の東日本大震災を経験する前まで、この震災の凄まじさは多くの人達を震撼させた。そんな激震で始まった1995年、私は結婚式は桜の樹の下で挙げたいと決めており、青山にあったデヴィ夫人の元の邸宅が借りられることを発見して、4月8日のお釈迦様の誕生日に予約した。桜の樹が至る所に植えてあり、ゴルフのパッティングができる広い庭、建物内部には螺旋状の階段がある、ドラマティックな洋館だった。

当時平日は国分寺の実家で過ごし、金曜日は仕事を終えるとそのまま列車で夫となる彼の赴任地に赴き、週末を一緒に過ごして、月曜日の始発に乗って会社に出社していた。1995年3月20日の月曜日、いつものように赴任地の始発の列車に乗り、地下鉄の銀座線に乗り換えて、京橋へ向かおうとした。通常は混雑する車内に乗客は殆どおらず、何か異変があったとは思ったが、当時携帯電話もインターネットもない時代で、地下鉄車内では情報の取りようがなかった。

この日は午前8時頃ラッシュ時の混雑を狙って、オウム真理教の麻原教主の指示によって、神経ガスのサリンが散布されて、乗客・駅員14名が亡くなり、負傷者は6,300名にものぼる大事件が起きていた。私が京橋駅に着いた時間は午前9時過ぎで、危機一髪ともいうべきタイミングで、サリン散布の遭遇を免れた。会社に着いて事件の概要を知り、その恐ろしさに身震いしたことを思い出す。

春の嵐を経て、4月8日は満開の桜が咲いた

私は西行法師の「願わくは 花のもとにて 春死なむ その如月の望月の頃」の歌が好きで、子供の時から、結婚式という死と無縁であるイベントを、桜の樹の下で挙げるイメージが、アタマにこびりついていた。

私達の結婚式は、一切プロの手を借りずに、私自身が全て計画し、「製作・脚本・監督・主演」という4役を実行した。会場手配、招待客の選択、招待状のデザイン・印刷、料理・引き出物・花々の手配、当日のタイムスケジュールなど、全て私が指示・交渉した。式の前日は春の嵐となり、周囲から庭園にテントを用意したほうがいいと忠告されたが、私は頑固にそれを固持し、「私は晴れ女!明日は絶対晴天になる」と突っぱねた。翌日は、輝く青空の下で、見事な日本晴れとなり、桜は満開に咲き誇った。

既にメイクアップも終えてウエディングドレスを着ている私のところに、「大柴さん、講談社と集英社の社長から祝電が来ています、どっちを先に読み上げますか?」とか、「洋館内の音響の具合が悪いので、音楽を流すのは厳しいかもしれませんが、どうしますか?」などと言った声が、ぎりぎりまで聞こえてきた。仕舞には、私の介添え役として動いていた女友達は、「彼女を花嫁にしてやってください。ここから出て行って」と、叫ぶ始末であった。

最後の10分間の静寂の中、やっと花嫁の気持ちになれた私は、弟の腕にすがって、庭園に敷き詰められた白いヴァージンロードに向って歩きだした。

その後は、まさに私らしくもなく、生涯に1度だけ女性が、プリンセスのような気分になって舞い上がる姿そのままで、無事に結婚式を終えた。

違法長期滞在の疑いで、SFの空港で別室に連れて行かれた私

日本での新婚旅行は蔵王で、ゴンドラに乗って山頂に建てられた「スターライトホテル」というロマンティックな名前の宿に泊まり、季節外れで誰もいないゲレンデでスキーを楽しんだ。

7月末の正式な退社までにやるべきことは意外と多く、正式な結婚届を提出し、夫のLast nameをカタカナ読みした新たな戸籍を作成し、私は戸籍の戸主となり、夫は戸籍の欄外にカタカナでFirst nameが表記された。パスポートも大柴姓から、カタカナ姓に変更した。夫の来年以降の勤務地が未定でもあり、その確認と米国でのハネムーンを兼ねて、8月夫の会社の本社のあるSFベイエリアに向った。3か月は観光ヴィザでいられることが念頭にあり、帰りの日付がオープンのままのチケットを持ったまま、SFOに降り立った。

税関で、夫は市民、私は訪問者の窓口で分かれて、通関しようとしたが、検査官は私のパスポートを見て不審な顔をしながら、帰りのチケットを見せろと言ってきた。私はいつ日本に戻るかをまだ決めていないので、帰りのチケットの日付はオープンで、それは夫が持っている、その件は彼が説明すると答えた。検査官は、いきなりトランシーバーで係官を呼んで、私を別室に連れていけと指示した。すでに通関していた夫が、不穏な空気を察知して、駆け付けて、結果2人で係官の後に従って、別室に入った。

係官は、私が既にLast nameを変えたパスポートを持ちながら、帰りのチケットの日付がオープンなのは、このまま米国に違法で長期滞在することを計画していると、詰問してきた。夫がいくら事情を説明しても納得しない係官は、パスポートを取り上げて、弁護士と一緒に指定する期日に再度来て、質問に答えるとように、言い放った。

夫は「アメリカ人と結婚しても、日本で結婚届を出さずに日本名のままのパスポートを保持し、日米を悠々と行き来している多くの不法な人がいる。そんな中で、正式な手続きを経た人間をこのように扱う。なんなんだこの不合理は!」と激怒した。

私の米国でのハネムーンは、こうした手ひどい歓迎を受け、惨憺たるスタートで始まった。

次回以降は、その後の26年間の米国における私の山あり谷ありの飛んでもない人生を語ることにする。







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